日本の道/ヤビツ峠 【1960〜】
タイトなコーナーが続く神奈川屈指のテクニカルな山岳道路
1960年代から1990年代の初頭にかけて、相模ナンバーの走り好きにとって“聖地”と呼ばれるワインディングロードがあった。箱根と道志、そして“ヤビツ峠”である。
国道246号線の名古木交差点(神奈川県秦野市)から海抜761mの峠を通り、愛甲郡清川村宮ヶ瀬北原交差点へと経る神奈川県道70号秦野清川線が、ヤビツ峠(通称ヤビツ)のメインコースだ。秦野からヤビツ峠に至るルートは“表ヤビツ”、宮ヶ瀬からヤビツ峠に向かうルートは“裏ヤビツ”とも呼ばれる。また、舗装化が進んだ近年では全ルートを通して、さらに県道64号伊勢原津久井線を含めて、“宮ヶ瀬レイクライン”と呼称されるようにもなった。
そもそもヤビツという名称は、かつて戦国時代に相模国の北条氏と甲斐国の武田氏が争いを展開したことに端を発しているという。この時に使用された矢を収納する箱、いわゆる“矢櫃(やびつ)”が旧峠道の改修の際に発見され、ここから改修後の道路をヤビツと呼ぶようになったそうだ。ちなみに、ヤビツ峠の西側には今でも旧峠道の一部が残っている。
ヤビツ峠を通る総距離約30kmの神奈川県道70号秦野清川線は、丹沢山系を南北に結ぶ自動車道としては最西端に位置し、同時に一般車両が通行できる縦走ルートとして非常に希少である。また、夜間に表ヤビツを走行すると、南側の夜景がとても美しい。ただし、そのルート上は幅員の狭い区間が多く、起点と終点の付近は2車線で整備されているものの、それ以外のほとんどの部分が1ないし1.5車線の広さ。つまり、待避所のある箇所を除いてクルマのすれ違いが困難なルートが続くのである。
なぜヤビツ峠は走り好きの人気スポットとなったのか−−。それは歴史的な背景とコース自体の特性にある。
歴史的には、1960年代から1970年代初頭にかけてラリーのコースに使われた点が大きい。初期の日本アルペンラリーを始め、関東地区ラリーや学生ラリーが、まだ未舗装区間の多かったヤビツ峠を舞台に開催されたのだ。また、近隣の自動車メーカーや改造ショップがラリー車を開発する際、試走ルートとしてよく活用したという。さらに、1980年代のバイク・ブームの頃は機動力に優れる2ストレプリカなどが大挙して疾走。箱根などに比べると平均車速はどうしても遅くなるタイトなルートだったため、チューンアップしたスクーターもよく見かけられた。
コースの面では、表情豊かでテクニカルなコーナーが続くため、ドライビングおよびライディングの技量を目一杯に試される道程であることが、走り好きを魅了した。クルマの絶対的なパワーよりも、アクセルワークやコース取りなどがものをいう玄人好みのルート設定−−それがヤビツの真骨頂だったのである。もうひとつ、デートで訪れても、夜景が楽しめるので飽きさせない、という軟派なメリットもあったらしいが……。
舗装化が進み、比較的走りやすくなった現在のヤビツは、クルマやモーターサイクルを駆る走り屋の姿は少なくなり、道程や風景を味わうツーリングルートとしての性格が強くなった。一方で、自転車ヒルクライムやダウンヒルを楽しむサイクリストが大幅に増え、とくに表ヤビツにおける約12kmの区間のヒルクライムではプロアマを問わず様々な人がタイムアタックを行い、ネットなどでタイムを公表している。走り好きの動力源が内燃機関から人間の脚力に変わった、といったところだろうか。
また、近年のヤビツは周辺の施設や観光スポットが以前に比べて充実したことも特徴といえる。自然観察の森の開設や湧水場の整備、カフェや休憩所の設置、ハイキングおよび登山コースの設定など、ドライビングおよびライディング以外の楽しみ方も確実に増えた。
クルマにモーターサイクル、そして自転車−−操る乗り物に変化はあるが、ヤビツ峠はいつの時代も走り好きの心を惹きつけるゴールデンルートである。