240 【1974〜1993】

“空飛ぶレンガ”の異名をとったボルボ屈指のロングセラー

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VESCを反映させたニューモデルの開発

 自動車の大量生産技術の向上および普及や国民所得の増加などに伴い、世界規模で自家用車の保有台数が伸びていった1960年代後半の自動車市場。いわゆるモータリゼーションの発展の一方で、深刻な社会問題が発生する。交通事故の急激な増加だ。この状況に対して、創業以来「車は人によって運転され、使用される。従って、設計の基本は常に安全でなければならない」という開発理念を掲げるスウェーデンを代表する自動車メーカーのボルボは、独自の交通事故調査を基にして各システムや構成部品を新設計した安全実験車を企画する。そして、1972年開催のジュネーブ・ショーにおいて「ボルボVESC(Volvo Experimental Safety Car)」を発表した。

 複数の異なるバージョンで仕立てられたボルボVESCは、当時の先進安全技術が豊富に盛り込まれていた。衝撃吸収構造のクランプルゾーンを内蔵したボディにテレスコピックマウントのバンパー、キャビンを取り囲むセーフティケージ、セミパッシブタイプのシートベルト、前後席に配したエアバッグ、スプリングを内蔵した安全ステアリング、ポップアップ式のヘッドレスト、アンチロックブレーキシステム、リアマウントカメラなどの安全機構を設定する。いずれのシステムも、量産車への採用を前提に開発していた。

 大きな注目を集めたVESC。開発現場では、このモデルの車両デザイン&安全設計を反映した新世代ファミリーカーの企画を鋭意推し進める。造形を主導したのは、アマゾンや1800ESのデザインなどで名を馳せたチーフデザイナーのヤン・ウィルスゴード(ウィルスガルド)だった。

「240」シリーズとして市場デビュー

 ボルボの新世代ファミリーカーは、1974年秋(1975年モデル)に240シリーズとして市場デビューを果たす。車種展開は2ドアセダンの242と4ドアセダンの244、5ドアワゴンの245をラインアップし、グレードは下位からL(2ドアセダン/ワゴン)、DL(2ドアセダン/4ドアセダン/ワゴン)、GL(4ドアセダン)を設定。当初の車名はシリーズ名+エンジン気筒数+ドア枚数を意味していた。

 240シリーズの基本骨格には、既存の140シリーズ用をベースに鋼鉄製のケージ構造や前後クラッシャブル構造などの安全設計を取り入れた進化版のスチールモノコックボディを導入する。ホイールベースは2640mm(後に2650mm)に設定。耐久性の向上を狙って、二重のアンダーコーティングや通気構造のロッカーパネルの採用、亜鉛メッキスチールの拡大展開なども実施した。懸架機構についてはフロントにマクファーソンストラット/コイル、リアに5リンクコンスタントトラック/コイルをセット。一部仕様には前後アンチロールバーを組み込む。また、操舵機構にはコラプシブルステアリングを配したラック&ピニオン式を、制動機構にはダブルトライアングル式2系統システムのサーボアシスト付き前後ディスク式を採用した。

ボクシーな造形。油圧ダンパー付き安全バンパーを装着

 デビュー当初の搭載エンジンは、ガソリンユニットの改良版B20A型1986cc直列4気筒OHV(82ps)のほか、アルミ合金製シリンダーヘッドやクロスフローなどを組み込んだ新タイプのB21型2127cc直列4気筒OHCのキャブレター仕様(B21A、97ps)および機械式燃料噴射+フルトランジスター点火仕様(B21E、123ps)をラインアップする。トランスミッションには前進フルシンクロの4速MT(GLには電気式スイッチによるオーバードライブをセット)とボルグワーナー製の3速ATをセット。駆動レイアウトはオーソドックスなFR(フロントエンジン・リアドライブ)で仕立てた。また、燃料タンクは車室およびトランクルームから隔てたリアアクスル近くに設置し、万が一の事故の際の火災発生を低減した。

 スタイリングに関しては、VESCを反映させた安全かつ手堅いボクシーデザインで仕立てられる。特徴的なのがアルミ製の安全バンパーで、ラバーコートを配したうえで油圧ダンパーを介してボディに接続されていた。また、ドアには横方向からの衝撃に備えてインパクトバーを内蔵。ドアラッチにはアンチバーストタイプを採用した。一方でインテリアについては、広いキャビン空間を実現したうえで人間工学に基づいた機能的なインパネやスイッチ類、容量の大きい空調システムなどをセット。シートは専門医師団を組織して開発した逸品で、視認性に配慮した格子タイプのヘッドレストやロングドライブでも疲労感が少ないクッション構造などを導入する。ワゴンの後席には、ホールディング機構を組み込んでいた。

1970年代の進化の過程

 オイルショックの影響もあって、デビュー当初こそ販売が伸び悩んだ240シリーズ。しかし、その安全性の高さや優れたパッケージングなどが次第に評判を呼び、セールスは徐々に回復していく。その上昇気流をさらに高めようと、開発陣は市場に要請に則した改良を積極的に図っていった。

 1976年モデルでは、B21Aユニットのカムシャフトを変更するなどでして最高出力が100psへとアップ。1977年モデルでは、新ユニットのB19型1986cc直列4気筒OHCエンジン(90ps)搭載車を設定する。また、1977年はボルボ創立50周年に当たることから、記念の特別バージョンとなる244DLを発売した。1978年モデルになると新しい防錆および塗装処理を導入し、初期モデルで発生した錆の問題が払拭される。そして1979年モデルでは、角型ヘッドランプの採用やサスペンションのセッティング変更など、比較的大がかりな改良を実施するとともに、新設計のB23E型2316cc直列4気筒OHCエンジン(140ps)に強化した足回りなどを組み込んだスポーティモデルの242GTを追加設定。さらに、フォルクスワーゲンと共同開発したD24型2383cc直列6気筒OHCディーゼルエンジン(82ps)搭載車や一部市場向けのD20型1986cc直列5気筒OHCディーゼルエンジン(68ps)搭載車もラインアップに加わり、240シリーズの裾野はいっそう広がった。

ターボモデルの追加などを実施した1980年代

 1980年代に入っても、240シリーズの進化は続く。1980年モデルでは、B23Eエンジンを搭載する4ドアセダンとワゴンのGLTグレードを設定。1981年モデルでは、B21Aユニットが吸排気系の改良や圧縮比のアップなどによって最高出力106psへと向上し、またGLグレードには新たにB23A型2316cc直列4気筒OHCエンジン(112ps)が採用される。一部の市場向けには、B17型1784cc直列4気筒OHCエンジン(91ps)搭載車も設定された。

 この年、240シリーズの最強モデルがラインアップに加わる。ギャレット製ターボチャージャーにウェイストゲートバルブを組み込んだB21ET型2127cc直列4気筒OHCターボエンジン(155ps)を搭載する244ターボが登場したのだ。控えめながらも確実に効果を発揮する空力パーツに専用アレンジの内装、強化タイプのサスペンション、軽合金ホイール+偏平タイヤなどをセットしたターボモデルは、240シリーズに新たな魅力をもたらす。また、B21ETユニットは後にワゴンや2ドアセダンにも採用された。
 1983年モデルになると、車名が240に統一される。また、1984年には2ドアセダンが生産を終了。1985年モデルでは、ガソリンエンジンがB230型2316cc直列4気筒OHC(115ps)とB200型1986cc直列4気筒OHC(101ps)に刷新された。

19年あまりに渡るロングセラーに発展

 1984年には240シリーズの実質的な後継車となる740シリーズがデビューする。これを期に、240シリーズの車種展開は一気に絞られた。このまま消滅するかに見えた240シリーズ。しかし、クラシカルモダンなスタイルや扱いやすいボディサイズ、リーズナブルな価格設定、そしてモータースポーツシーンでの大活躍などによって市場から根強い支持を集め続け、販売台数は予想外に落ち込まなかった。最終的に経営陣は、240シリーズの生産継続を決断。同時に最新の安全装備を随時採用していく方針を打ち出し、4席分の3点式イナーシャリールシートベルトや運転席エアバッグ、ABSなどを組み込んでいった。

 1991年にはボルボの新世代サルーン&ワゴンで、FF(フロントエンジン・フロントドライブ)の駆動レイアウトを採用した850シリーズが登場し、ワールドワイドで高い人気を獲得する。そして、この850シリーズの生産・販売が本格化するのに伴い、240シリーズの生産中止を決定。最終モデルは1600台限定生産のクラシックとし、1993年5月5日に最後の車両が本国イエテボリのトースランダ工場から送り出された。19年あまりに渡って生み出された240シリーズは、4ドアセダンが148万3399台、2ドアセダンが24万2621台、5ドアワゴンが95万9151台の計268万5171台を記録する。ボルボの安全思想と卓越したパフォーマンス、そしてワゴンづくりの巧みさを世界中に知らしめた240シリーズ。まさにボルボ史に燦然と輝く名車である。

モータースポーツシーンで大活躍した“空飛ぶレンガ”

 ボルボは1981年に発売した240ターボを駆って、ツーリングカーレースに積極参戦した。本格的なエントリーは1984年シーズンのETC(欧州ツーリングカー選手権)グループAからで、この年には1勝を獲得。また、DTM(ドイツツーリングカー選手権)の舞台でも1勝をあげた。1985年シーズンのETCでは、14戦中6レースに勝利してタイトルを獲得。また、DTMでも優勝1回、表彰台5回の成績を収めてチャンピオンに輝いた。

 その走る姿から“FLYING BRICK(空飛ぶレンガ)”のニックネームがついた240ターボは、日本でも雄姿を見せる。最大の活躍は1985年と1986年に富士スピードウェイで開催された国際ツーリングカー耐久レース(インターTEC)で、BMW635CSiなどの強豪を相手に見事に2連覇を成し遂げた。ちなみに、1985年開催のインターTECを観戦していたR31スカイラインの開発主担の伊藤修令は、DR30スカイラインの惨敗を見て一念発起。次期型(R32)ではGT-Rを復活させ、ツーリングカーレースを制覇してやるという思いを強くしたのである。