三菱の歴史2 第二期/1963-1976 【1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976】

フルラインメーカーへの足固め

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三菱500やコルト600、ミニカなどの開発で、
自動車市場への進出を果たした旧三菱系3社は、
1964年に三菱重工業として再び集結し、
さらなる車種ラインナップの拡大を図る。
1970年には三菱重工業から自動車部門が独立。
三菱自動車工業として活動することになった。
■小型車とプレステージカーの登場

 三菱自動車の歴史を語るうえで、1960年代中盤から1970年代初旬にかけての期間は非常に重要なポイントとなる。乗用車メーカーに脱皮するための経営戦略や会社の再編成など、現在の形態の基礎をかたち作る時代だったからだ。

 1963年7月、新三菱重工(旧・中日本重工)は1L車のコルト1000を発表する。名古屋製作所で開発したKE型エンジンは、同社初の水冷方式を採用していた。さらに新三菱は高級車の分野にも着手。GMのデザイナーだったハンス・S・ブレッツナーにボディデザインを依頼し、豪華なプレステージカーを開発する。そのモデルはデボネアと名付けられ、1963年10月の第10回全日本自動車ショーでデビューし、翌1964年の6月から販売を開始した。この時点で新三菱は軽自動車のミニカ、大衆車のコルト600、中級車のコルト1000、高級車のデボネアという4シリーズをラインナップするまでに至った。

 デボネアの販売が始まったのと同時期の1964年6月、旧三菱重工業系の3社は再び合併し、新生・三菱重工業として再出発する。自動車の開発もさらに活発化し、1965年10月には国産初のファストバックボディを採用するコルト800と1.5Lエンジンを搭載したコルト1500をリリース。1966年9月にはコルト800の発展型のコルト1000Fを発表した。ちなみにコルト1000Fは1967年開催の第2回オーストラリア・サザンクロスラリーに参戦し、見事クラス優勝を達成。翌年の第3回では発展型のコルト1100Fスポーツが優勝している。

■三菱重工から自動車部門が独立

 1960年代後半の三菱のクルマは信頼性が高く、実用にも優れていると評判だった。ただしエンジニアリングを優先していた影響で、内外装の地味な印象がつきまとう。開発陣はこのデメリットを打ち消そうと、新型車に華美なイメージを持たせることにした。

1969年10月、コルト1200/1500の後継車となるコルト・ギャランが発表される。ジョルジエット・ジウジアーロがタッチしたとされるウエッジシェイプの大胆なスタイル、スポーティなインテリアなど、従来のコルトのイメージとは大きく異なっていた。エンジンは三菱初のOHCヘッドを持つサターンエンジンを搭載している。ちなみにコルト・ギャランの開発とほぼ同時期、三菱重工は愛知県の岡崎市に高速テストコースを創設する。これ以降の新モデルは、高速での走りが劇的によくなったと評された。

 1970年になると、会社自体の形態が大きく変わり始める。米国クライスラー社の資本参加が決定し、その前提を踏まえて三菱重工から自動車部門が独立、三菱自動車工業が発足した。三菱自動車とクライスラーの資本提携は、93年まで続くことになる。
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■排出ガス対策と車種展開の再構築

 三菱自動車になって最初に発表されたクルマは、1970年10月デビューのギャランGTOだった。流麗なクーペボディに1.6L・DOHCの強力エンジンを搭載したGTOは、走り屋の絶大な支持を集める。さらに1971年10月にはファストバックとノッチバックを融合した新ボディのギャラン・クーペFTOが登場。1972年10月には全車4サイクルとなったミニカF4が発売された。ミニカとギャランのあいだを埋める新車種のランサーがデビューしたのは1973年1月。ロングノーズ&ショートデッキのスタイリングは非常にスポーティだった。

 このころになると、三菱自動車も排出ガス規制の対策に追われることになる。燃焼室内に強いスワールを発生させて混合気を効率よく燃焼させるMCAシステム、絞り弁下方注入2段調量式のEGR、小型の新しい酸化触媒などを開発し、生産車に順次組み込んでいった。

 排出ガス規制に一定の目処が立った1975年、三菱は久々に新型車を発表する。FTOの後継車となる小型スペシャルティカーのランサーセレステだ。さらに1976年5月にはギャランがフルモデルチェンジしてギャランΣとなり、その6カ月後にはクーペボディのギャランΛが追加される。いずれのクルマもルックスの注目度は高く、かつての“地味なスタイル”のイメージは完全に払拭されていた。