ボルボ1800シリーズ 【1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973】
見る者を魅了した“スエディッシュ・フェラーリ”
ボルボは1957年に発売したアマゾンおよび120シリーズの成功によって、市場での販売シェア拡大とブランドのイメージ向上を成し遂げる。スウェーデン屈指の自動車メーカーに成長した同社は、1950年代後半に新世代のスポーツカーを計画する。
新しいスポーツカーは、1956年から1957年にかけて生産したものの、販売台数を伸ばせなかった(68台)「P1900」の反省を活かして企画が進められる。反省材料とは、P1900のチューブラーフレームにガラス繊維強化ポリエステル製のボディ、しかも2シーターオープンという車両レイアウトが、コスト面でもスウェーデン人の使用パターンの面でも不利に働いたことだった。
次世代のスポーツカーは、可能な限りコストを抑えた合理的な設計を施しながら、流麗なスタイリングを持ち、かつ耐候性に優れる車両レイアウトで仕立てなければならない。また、欧米各国への輸出を念頭に置いて海外ユーザーの志向を踏まえたデザインを導入する必要がある−−。こうした指針を決定した開発陣は、1957年より本格的に企画をスタートさせた。
ボルボの新世代スポーツカーは1959年5月に概要が公式に発表され、翌1960年1月開催のブリュッセル・ショーにおいて「P1800(PはPerson vagnの意味)」の車名で一般に初公開する。また、メイン市場のアメリカでは同年4月開催のニューヨーク・ショーでデビューを飾った。
P1800のシャシーは、既存のアマゾン用をベースにスポーツカーの特性に合わせた入念な改良を実施する。ボディは良質なスウェーデン鋼を使った新設計のモノコック構造を採用。車両デザインはボルボPV444の開発を主導したヘルメル・ペッターソンの息子で、当時イタリアのカロッツェリア・フルアに在籍していたペレ・ペッターソンが、カロッツェリアを主宰するピエトロ・フルアの指導のもとに造形を手がけた。
基本スタイルはノッチ付きの2ドアクーペで構成。そのうえで、高度なプレスと高めのウエストライン、楕円の太いメッキ枠に格子状グリルを配したフロントマスク、ロングノーズに流麗なルーフ造形、アメリカ車のテイストを盛り込んだフィン形状のサイドテールと流れるようなトリムラインなどを採用。存在感あふれる美しいクーペフォルムを実現する。また、アマゾンと同様に徹底した防錆および防水処理を施し、ボディの高い耐久性を確保した。
流麗かつ頑強なクーペボディを支えるサスペンションは、フロントにテレスコピックダンパーとコイルスプリング、スタビライザーをセットした独立懸架のダブルウィッシュボーンを、リアにダンパーとコイルスプリング、トレーリングアーム+パナールロッドで構成したリジッドアクスルを組み込む。ホイールベースは2450mmに設定。一方で操舵機構には専用セッティングのカム・アンド・ローラー式を、制動機構には2系統回路の前ディスク式/後ドラム式のブレーキをセットした。
搭載エンジンはボア×ストロークを84.14×80mmに設定したうえで、表面硬化ジャーナルおよび鉛青銅合金ベアリングや専用カムシャフトなどを組み込んだ新開発のB18B型1778cc直列4気筒OHVユニットを採用する。燃料供給装置にはSUキャブレター2基をセット。圧縮比は9.5とし、100hp/5500rpmの最高出力を発生した。駆動レイアウトはオーソドックスなFR(フロントエンジン・リアドライブ)で、トランスミッションにはM40型4速MTを導入。オプションでレイコック・オーバードライブ付のM41型4速MTを選択することもできた。
P1800は当初、ボディパネルの生産を英国のプレストスチール社が、組立および塗装を同じく英国のジェンセン社が担当する。また、電気部品はルーカス、ブレーキはガーリング、ベアリングはヴァンダーヴェル、ホイールはサンキー、ミッションのオーバードライブ機構はレイコック・デ・ノーマンビル、キャブレターはSUと、いずれも英国メーカーが供給した。英国企業を選んだのには、1960年5月に英国とスウェーデン、さらにオーストリア、スイス、デンマーク、ノルウェー、ポルトガルの計7カ国が欧州自由貿易連合(EFTA)を結成したことが背景にあった。
ちなみにボルボは、P1800の開発段階から生産の海外移管を模索していた。自社の工場はアマゾンおよび120シリーズなどの生産で手一杯。新工場の設立も、P1800のデビュースケジュールに間に合う見込みはなかった。ボルボが最初にアプローチしたのは西ドイツのコーチビルダーのカルマン。しかし同社は、フォルクスワーゲン車=カルマンギアの生産に追われていたため、ボルボのプロジェクトから撤退する。その後、西ドイツやイタリアなどで提携先を懸命に探し、最終的にEFTAを結ぶ英国のプレストスチール社とジェンセン社に白羽の矢を立てたのである。
1961年モデルとして販売をスタートさせたP1800は、後にジェンセンの品質管理が問題となり、1963年モデルの途中からは本国のルンドビー工場に生産を移管。車名も「1800S(SはSwedenの意味)」に変更する。同時に、ドアパネルの再設計やエンジン出力のアップ(108hp)なども実施した。完成度を高めた1800Sは、1969年モデルで搭載エンジンをB20B型1986cc直列4気筒OHVユニット(118hp)に換装。そして1970年モデルでは、燃料供給装置にボッシュDジェトロニックを組み込むB20E型1986cc直列4気筒OHVエンジン(130hp)を採用し、車名は「1800E(EはEinspritzの意味)」に切り替わった。
1800シリーズの進化を図る一方、開発陣は販売強化を目的にボディバリエーションの拡大を計画する。候補に上がったのは、リアにハッチゲートを組み込んだスポーツワゴン風のモデルだった。ノッチ付クーペボディからの改造が比較的容易で、しかもコストをかけずに実用性を向上させられる点が、開発陣を惹きつけたのだ。デザインスタディとして提案されたのは、イタリアのカロッツェリア・フィッソーレが手がけたファストバッククーペ、セルジオ・コッジョラがデザインした“ビーチカー”や“ハンター”、ピエトロ・フルアが造形した“ロケット”など。最終的に開発陣はライバルが少ないスポーツワゴンの生産化を打ち出し、基本造形をチーフデザイナーのヤン・ウィルスゴード(ウィルスガルド)が手がけ、設計およびプロトタイプの製作に当たってはカロッツェリア・コッジョラの協力を仰ぐ旨を決定した。
1800シリーズのスポーツワゴンは、1971年8月に1972年モデルとして市場デビューを果たす。車名は「1800ES」を名乗った。
1800ESの基本骨格には、クーペの1800Eのスチールモノコックをベースにルーフパネルの延長やリアセクションのワゴン化などを実施した専用ボディを採用する。ハッチゲートは1枚の強化ガラスで構成され、開閉に必要な2つの蝶番と2本のダンパー、そして取っ手が直接ガラス内に組み込まれた。また、リアクオーターには大きな固定式ウィンドウを装着し、外観のスタイリッシュさと室内の開放感を向上させる。ボディサイズは1800E比で35mmほど長くなった程度で、2450mmのホイールベース共通だった。
足回りは1800Eと同様、フロントにダブルウィッシュボーン/コイルを、リアにトレーリングアーム+パナールロッド/コイルをセット。そのうえで、車重の増加などに合わせて専用セッティングを実施する。制動機構には、1800Eと同様に前後ディスクを装備した。パワートレーンは燃料供給装置にボッシュDジェトロニックを配したB20E型1986cc直列4気筒OHVエンジンを搭載。圧縮比10.5から135hpの最高出力を発生した。アメリカ市場などには排気コントロールシステムを追加するとともに圧縮比を引き下げたB20F型エンジン(125ps)を採用する。組み合わせるトランスミッションにはレイコック・オーバードライブ付のM41型4速MTのほか、ボルグワーナーの35型3速ATが選べた。
インテリアは前席空間が基本的に1800Eと共通で、+2の後席およびラゲッジルームに専用のアレンジを施す。後席にはシートバックに可倒機構を内蔵し、倒した際はフラットなフロア面が出現。ラゲッジルームは床面および側面全体を室内と同質のカーペットで覆い、傷つきにくくかつ上質な荷室空間を創出する。また、床面の左右側部には小物が収納できるスペースを設定していた。
1800シリーズは1972年モデルをもってクーペの1800Eが生産中止となり、1973年モデルでは1800ESのみが販売される。装備面では鋼管のサイドインパクトドアビームの設定やフロントガラスのワイパー払拭面積の拡大などを実施。アメリカ仕様では衝撃吸収バンパーの装着やB20F型エンジンの仕様変更(最高出力は112hpにダウン)などを行った。
改良を加えた1800ESだったが、それでも基本設計の古さは隠せなかった。しかもメインマーケットのアメリカで予定される安全基準の厳格化に対応するのは困難なことが予想された。最終的にボルボの首脳陣は、1973年6月をもって1800ESの生産中止を決行。1800シリーズとしては約12年、スポーツワゴンの先駆モデルであるESとしては約2年となる車歴に幕を下ろしたのである。