フェアレディ240Z 【1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978】

スポーツカーの歴史を塗り替えた高性能“Z-CAR”

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日産自動車は1969年にクーペボディの精悍フォルムを
まとった新世代スポーツカーの「フェアレディZ」を発売。
米国市場では1970年に「DATSUN 240Z」として発表する。
さらに1971年には輸出専用であったL24型エンジンを搭載する
「フェアレディ240Z」シリーズを日本国内でリリースした。
240Zは最強のパーソナルGTとしてマニアからの熱い支持を獲得。
スポーツカーの歴史を塗り替える。
米国を意識した新世代スポーツカーの開発

 日産自動車は、日本の自動車メーカーでいち早くアメリカ市場に進出し、1960年には現地法人のアメリカ日産を設立した。“DATSUN”(ダットサン)ブランドを冠し、当初はセダンやピックアップを中心に販売を展開していたが、やがて2シーター・オープンスポーツのフェアレディSP/SR(米国名ダットサン1500/1600/2000)がユーザーの支持を集めるようになり、1960年代後半には同ブランドのイメージリーダーに成長していた。

 一方でこのフェアレディ人気を冷静に捉え、さらにアメリカ市場のユーザー志向を分析していた人物がいた。当時、アメリカ日産の社長だった片山豊である。片山は「アメリカのユーザーはスポーツカーに対し、スタイルと速さはもちろん、快適性や安全性、扱いやすさに関しても、もっと高いレベルを求めている」という結論を導き出し、本社の開発陣にその旨をフィードバックする。

 本社側としても、販売台数の伸びにつながるアメリカ日産の意見は貴重なアドバイスとなった。結果的に次期型のフェアレディは、①レースやラリーで十分に戦えるだけの素地を持ち、性能の極限を追求する②乗用車並みの乗り心地で実用性を持たせ、ファーストカーとしても十分に使える特性を備える③大量生産が可能な、価格も安く車両重量も適当なものとする。そして④フェアレディの主要市場であるアメリカに十分適合したクルマに仕上げる、との開発方針が決定された。

 新しいスポーツカーのボディ形状を決める際、開発陣は当初、フェアレディSP/SRのようなオープンスポーツを計画する。しかし、アメリカ国内では今後、安全基準がいっそう厳しくなり、さらにGTカーとしての快適性が一段と重視されるという情報から、ハッチゲートを持つファストバッククーペのボディ形状に変更した。また、アメリカ仕様向けのエンジンに関しては従来の2ℓでは物足りないという現地の意見を取り入れ、改良版L型(1967年後半より開発がスタート)のL24型2393cc直列6気筒OHCの採用が決定された。

“Z”のサブネームをつけて市場デビュー

 1970年代に向けた日産の新しいスポーツカーは、まず1969年10月開催の東京モーターショーで華々しく披露される。車名には、従来のフェアレディに加えて、アルファベットの最後の文字で究極を意味する“Z”のサブネームが付けられていた。ちなみにフェアレディZの開発中に、アメリカ日産の片山からZ旗が贈られていた。国際信号旗の規定では引き船の要請や投網中を意味するZ旗だが、日本では日露戦争中に東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する戦艦の三笠がZ旗を掲揚して全艦隊の士気の高揚をはかったエピソードが有名で、これにちなんで片山はZ旗を開発部隊に贈ったのだ。そして最終的には車名にも盛り込まれたのである。

 すべてが新開発のフェアレディZは、ロングノーズの流麗なクーペフォルムにまとめられ、ポルシェタイプの5速MT、高い路面追従性を確保した4輪ストラット式の足回り、操縦性に優れるラック&ピニオン式の操舵機構、マスターバック付きの前輪ディスクブレーキなど、最新のスポーツカーに必要な要件をフルに満たしていた。日本市場向けのラインアップは、L20型1998cc直列6気筒OHCエンジン(130ps/17.5kg・m)を搭載する標準グレードのZと充実装備のZ-L、そしてS20型1989cc直列6気筒DOHC24Vエンジン(160ps/18.0kg・m)を採用するZ432(4バルブ/3キャブレター/2カムの採用を意味)という3グレード構成でスタートする。また、快適装備を省いたうえでFPR製ボンネットやアクリル樹脂製ウィンドウなどの軽量パーツを採用したモータースポーツベース車のZ432-Rを設定した。

アメリカでは「240Z」の車名でリリース

 最新スポーツカーのアメリカでの初公開は、1970年4月に開催されたニューヨーク・ショーの舞台だった。日本のフェアレディZには未設定のL24型エンジンを搭載し、車名を「DATSUN 240Z」としたニューモデルは、たちまちアメリカ人の心を惹きつける。現地の自動車マスコミからは、「OHCエンジンやディスクブレーキ、4輪独立懸架サスペンションなどの先進システムを、見事なやり方で、しかも非常に手頃な価格(標準仕様車3256ドル)で組み込んできた」という好意的なコメントが送られた。ショーで大注目を集めた240Zは、発売に移されるとたちまち好セールスを記録する。当初の月産計画は2000台だったが、それではとても追いつかず、やがて2倍、3倍へと増やされた。結果的に1970年モデルの生産予定期間の終了時点では、およそ半年ほどのバックオーダーを抱える状況となった。

イギリス製スポーツを駆逐したZ-CAR

 “Z-CAR(ズィーカー)”と呼ばれるようになった240Zの大ヒットは、当時のスポーツカー市場、とくに世界最大のスポーツカーマーケットであるアメリカ市場に大きな変化をもたらした。それまでは同市場で高い占有率を誇り、大人気を博していたイギリス製スポーツカーの人気が急降下したのである。240ZはトライアンフTR6や、オースチン・ヒーレー3000などよりも快適で性能がよく、しかも車両価格が安い。さらに、顧客への対応もイギリスメーカーのディーラーよりずっといい−−。アメリカのユーザーは日産ディーラーに殺到。こぞってZ-CARを買い求めた。以後、イギリスの多くのスポーツカーメーカーはアメリカ市場から脱落していくこととなった。

L24型エンジン搭載の240Zを日本にも投入

 1971年10月になると日本でもL24型エンジンを積むモデルが設定され、車名は「フェアレディ240Z」を名乗る。車種展開は標準モデルの240Zと上級仕様の240Z-L、そしてバンパーとスポイラーが一体となったエアロダイナノーズや、オーバーフェンダーおよびラジアルタイヤ(175HR14)などの専用パーツを装備したフラッグシップ車の240ZGという3グレードをラインアップした。
 フェアレディ240Zに搭載するエンジンは、OHC機構や7ベアリング支持クランクシャフトなどを組み込んだL24型2393cc直列6気筒OHCユニットで、ボア×ストロークは83.0×73.7mmのオーバースクエアタイプに仕立てる。圧縮比は8.8と低めに設定し、使用燃料はレギュラーガソリン。燃料供給装置にガス弁径φ46mmのSUキャブレターを2基組み合わせ、150ps/21.0kg・mのパワー&トルクを発揮した。トランスミッションには前進フルシンクロメッシュ5速MTと6ポジション式のニッサンマチック・フロアタイプ3速ATを用意。懸架機構は専用セッティングの前後ストラット式で、フロントにはトーションバー式のスタビライザーをセット。ブレーキ機構はフロントにガーリング型のディスク、リアにフィン付きのリーディングトレーリングを装備した。

スポーツカー市場の勢力図を塗り替える大ヒット作に成長

 フェアレディZは、排出ガス規制やオイルショックなどの影響を受けて、1973年初旬にはZ432の生産を中止。また、1974年モデルからは、輸出仕様車が搭載エンジンをL26型エンジンに変更した関係で日本仕様の240Zの販売も終了する。フェアレディZの国内販売はL20型エンジン搭載車に1本化され、1975年9月には、燃料供給装置にニッサンEGIを組み込んだL20E型エンジンに換装された。

 一方で海外市場向けのモデルは排出ガス規制に苦心しながら進化を続ける。1974年モデルでL26型2565cc直6OHCエンジン(162bhp/152lb-ft)を積む「260Z」を、1975年モデルではL28型2753cc直6OHCエンジン(168bhp/175lb-ft)を搭載する「280Z」をラインアップする。ボディ形状では、260Z以降にホイールベースを300mmほど延長(2605mm)した4名乗りの“2by2”(2+2)を追加。この2by2ボディは、L20型エンジンを積む日本のフェアレディZでも1974年1月より設定された。

 日本やアメリカを中心に、世界中のマーケットで大成功を収めたZ-CARは、1978年にフルモデルチェンジを実施して第2世代に切り替わる。1970年代のスポーツカーの勢力地図を大きく塗り替えた初代Z-CAR。その偉業は、日本製スポーツカーの歴史を語る上で欠くことのできないトピックである。

COLUMN
240Zの実力を証明した国際ラリーでの大活躍
 日産自動車にとって240Zは、国際ラリーに参戦するための重要なベースマシンであった。プロトタイプのテストは1970年1月開催のモンテカルロ・ラリー終了後にスタート。秋にはマシンの準備が完了し、ホモロゲーション取得を済ませると、早速1970年11月開催のRACラリーに4台の240Zをエントリーする。ここではラウノ・アルトーネン/ポール・イースター組の18号車が総合7位に入った。本格参戦となる1971年1月開催のモンテカルロ・ラリーでは、アルトーネン/イースター組の62号車が総合5位、トニー・フォール/マイク・ウッド組の70号車が10位にランクイン。そして、同年4月開催のサファリ・ラリーではエドガー・ヘルマン/ハンス・シューラー組の11号車が総合優勝、シェカール・メータ/マイク・ダウティ組の31号車が2位という輝かしい戦績を残した。翌1972年シーズンでは、モンテカルロ・ラリーでアルトーネン/ジャン・トッド組の5号車が総合3位に、サファリ・ラリーでヘルマン/シューラー組の10号車が総合5位、アルトーネン/フォール組の5号車が6位に入る。240Zによるワークス参戦の最終年となった1973年シーズンでは、エンジン排気量を2498ccにまで拡大して戦闘力をアップ。そして、サファリ・ラリーでメータ/ロフティ・ドゥルーズ組の1号車が見事に総合優勝を飾ったのである。