日本モータースポーツの歴史02 【1968,1969,1970,1971,1972】

自動車メーカーの威信をかけた戦い



悲運の高橋選手。ポルシェに破れた日産

 1963年の第1回日本グランプリで火がついた日本のモータースポーツ熱は、高度成長の波に乗り、1960年代を通じて過熱の一途をたどる。1967年に行われた第4回日本グランプリの主役は、前年の日本グランプリと同じR380(スタイルを一新したII型に進化)とポルシェ906だったが、R380を作ったプリンスが日産と合併したため、出走マシンの名称は「ニッサンR380」になっていた。また、第3回日本グランプリで4台のR380のうち1台をドライブした生沢徹選手は、レース後に単身ヨーロッパに渡って本場のF3に挑戦。第4回日本グランプリ前に帰国して日産からの出場を打診したが断られ、第4回ではR380からポルシェ906に鞍替えしての出場となった。

 60周で争われたレースは、生沢がドライブしたポルシェ906が4台のR380を打ち破って優勝した。生沢とトップ争いを演じたR380の高橋国光選手は、18周目に先頭を走る生沢のポルシェがスピンしたのに巻き込まれてコースアウト。生沢がすぐにエンジンを再始動してレースに復帰した一方で、高橋は再始動に手間取り、戦列に復帰したときには6位に順位を落としてしまう。高橋はその後ハイペースで追い上げたが、2位まで挽回するのがやっとだった。

怪鳥R381がグランプリを席巻

「第5回」と呼ばず、「’68日本グランプリ」と西暦を冠した名称に改められた日本グランプリは突如、大排気量マシンによる戦いに変わった。当時、アメリカとカナダで開催され人気を集めていたCan-Amシリーズの影響を受けたためである。
 短時間で大排気量エンジンを開発するのは無理だと判断した日産は、シボレー製の5.5リッター・V8エンジンを購入して搭載したR381を開発。左右分割で可動する巨大なリヤウィングが目を引いた。

 前年のレースを欠場したトヨタは、ヤマハと共同開発した3リッター・V8エンジンを搭載したトヨタ7を投入。1966、67年とポルシェ906で日本グランプリに臨んだ滝進太郎は、国内初のプロ・レーシングチーム「タキ・レーシングチーム」を興して本場のCan-Amで活躍するローラT70や、最新型のポルシェ910をそろえた。豪華なラインアップによる戦いは当時、トヨタ、ニッサン、タキの頭文字をとって「TNT対決」と騒がれた。

 80周(480km)に延長されたレースは、首位を走っていたR381の高橋国光選手が脱落するハプニングがあったものの、北野元選手がドライブするR381が後を受けてトップに立ち、ライバル勢を退けて優勝。2位に食い込んだ生沢徹選手のポルシェ910に1周以上の差をつけての勝利だったが、レース終了後のR381はタイヤのトレッドが摩耗しきって内部の構造が露出。実は薄氷を踏む勝利だった。

国産最強マシンR382の登場

 1969年に行われた’69日本グランプリは、大排気量化に一層の拍車がかかった。日産は直列6気筒をV型に組み合わせた自社開発のGRX型V型12気筒エンジンを引っ提げ、R382に搭載した。GRXエンジンの排気量は当初5リッターだったが、レース直前になって6リッターに引き上げられている。エアロダイナミクスの考えを先取りした左右分割可動ウィングの「エアロ・スタビライザー」はR382へも装着を前提に開発されたが、規則で禁止されたためにお蔵入りとなった。

 トヨタは前年の3リッターから5リッターへと排気量を引き上げたトヨタ7を投入。そのエンジンは名機の誉れ高いコスワースDFVを参考にしたと言われ、軽量・ハイパワーが自慢だった。タキ・レーシングチームは4.5リッター・水平対向12気筒の最新鋭ポルシェ917を持ち込み、ポルシェのワークスドライバー、ジョー・シファート選手にステアリングを握らせて、メーカー勢に一矢を報いる作戦に出た。

 120周(720km)に延長されたレースは、スタート直後にトヨタ7が先頭に躍り出ると、3周目にはポルシェ917がトップに立つ場面もあったが、徐々にペースを上げてきたR382が6周目に首位の座を奪回。黒沢元治と北野元のR382が3位以下を周回遅れにする速さで1位、2位を独占した。

排気ガス対策専念のための決断

 1970年の日本グランプリに向け、日産はさらに熟成を進めたR383を、トヨタは5リッター・V8エンジンにターボチャージャーを取り付けたトヨタ7ターボを開発していた。ところが、開催を目前に事態は急展開を迎える。日産が排気ガス公害対策に専念するためとして、日本グランプリへの欠場を発表。後を追うようにトヨタも不参加を表明した。二大自動車メーカーの不参加を受けて、この年の日本グランプリは開催中止に追い込まれたのである(表向きの理由は違ったが)。

 こうして自動車メーカーが威信を懸けて開発したプロトタイプスポーツカーが主役を演じた勃興期の日本のモータースポーツは突然の終焉を迎えることになる。その一方で、第1回日本グランプリで惨敗を喫したプリンス、後の日産はR380系の開発と並行してモデルチェンジした3代目スカイライン(C10型)をレーシングマシンに仕立てた「GT-R」を開発。フォーミュラマシンによるレースをメインに据えた1969年5月のJAFグランプリの前座レースでデビューウィンを飾ると、トヨタ1600GTやマツダ・サバンナらを相手に戦い、1972年の富士300kmレースで前人未踏の50勝を達成した。