190E2.3-16 【 1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994】

レース制覇を目指した小型スリーポインテッドスター

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メルセデス・ベンツ初のコンパクトセダンとして、
1982年に市場デビューを果たした190シリーズ。
上位クラスと同様の入念な設計や高い安全性を
備えた新世代サルーンはたちまち高い人気を獲得する。
その後、高性能版の「190E 2.3-16」が登場。
コスワースがチューニングした2.3L・DOHCエンジンに
エアロパーツをフル装備したレース参戦を前提にした
ホモロゲーション用ハイパフォーマンス車は、
メルセデスのスポーツイメージを一気に引き上げた。
DTM参戦に向けたホモロゲーションモデルの発表

 ダイムラー・ベンツは1983年9月に開催のフランクフルト・モーターショーに、ドイツ・ツーリングカー選手権(DTM)に出場するためのホモロゲーションモデルとして、1982年にデビューしたメルセデス・ベンツ190Eをベースとする「190E 2.3-16」と名づけた、190Eのスポーツモデルとなるホモロゲーションモデルを発表した。

正式発売は1984年からで、車名の190は現在のCクラスに相当するコンパクトカーを示す数字で、Eはドイツ語のEinspritz(燃料噴射)のイニシャル、その後の2.3は拡大されたエンジン排気量を意味し、16は4気筒エンジンが1気筒当たり4バルブの16バルブ型であることを意味していた。

ホモロゲーションモデル市販の意味

 レースに出場するためのホモロゲーション(認定取得)モデルを、限定販売するという手法はそれほど旧いものではない。それは、一般市販車を使ったレースが行われるようになった歴史がそう古くないからだ。一般市販車によるレースは、高度に専門化されてしまい、一般のクルマ好きには手が届かなくなってしまったモータースポーツ、そしてモータースポーツ用マシンを、もっと身近なものとするための工夫と言える。とはいえ、レースは他のマシンより速くなければ好成績は望めない。必然的に参戦用ベースモデルは高性能化の道を突っ走ることになった。

 そこでFIA(国際自動車連盟)では、市販車をベースとするレーシングマシンに厳格なレギュレーションを設け、野放図な高性能化に歯止めをかけようとした。これがホモロゲーション制度である。たとえばDTMに出場しようとするマシンは、同型のモデルをある一定の台数生産・販売しなければならないとした。DTMの場合は、グループAおよびグループNのカテゴリーで争われるレースだから、12カ月の間にベースとなる市販車を5000台生産する必要があった。190E 2.3-16は、瞬く間にその条件を満たし、1984年にグループAおよびグループNのホモロゲーションを獲得。市販を開始した。

190Eは当初WRCへの参戦を目論んでいた!?

 ダイムラー・ベンツでは標準型190Eの発売に先駆けて、WRC(世界ラリー選手権)に向けて190EをベースとするグループB(12か月で200台生産)のラリーマシンの開発を進めていた。もともと空気力学的に優れたスタイルの190Eは、強力なエンジンを搭載すれば、そのまま高性能なラリーマシンになるはずだった。そこで、エンジンのチューニングを英国に本拠を置くコスワース・エンジニアリングに外注した。

この当時、ダイムラー・ベンツは独自に高性能エンジンの開発を行っていたが、所期の性能が得られなかったことから、レーシングエンジン開発を専門とするコスワース・エンジニアリングに委託することとしたのである。果たして、この計画は大成功で、コスワース・チューンのエンジンは270馬力から300馬力のパワーを引き出すことに成功する。しかし、ベースとなる190Eの発売時期の関係からWRC出場は見送られることとなり、コスワース・エンジニアリングがチューンしたエンジンも開発中止となってしまった。

 190Eの高性能仕様の発売計画はここで頓挫するかに見えた。しかしコスワース製エンジンの優秀性を惜しむ声がメーカーの内外から高まり、結果としてラリーマシンのベースとしてではなく、レース参戦を目的とした高性能仕様の190E発売の決定が下される。こうして、1983年開催のフランクフルト・モーターショーで190E 2.3-16の発表となったわけである。

発売前に高速耐久テストを敢行

 190E 2.3-16は発売前の1983年8月13日から21日までの間に、南イタリアのナルド・サーキットを使い、FIAの監督下で長距離高速耐久走行テストを行っている。このテスト走行に使用する車両は、市販車に等しいものでなくてはならず、エンジンをはじめサスペンションやボディなどにチューンや改造は認められていない。

この時もロードクリアランス(最低地上高)を15mm、フロントのスポイラーを20mm延長しただけだった。地上高の変化は装着されるタイヤによるものであり、スポイラーもメーカーオプションとして販売される予定の品。いずれも、FIAの規定はクリアするものだった。その他、チャレンジ車は電動クーリングファンとパワーステアリングは取り外されていた。

 スタートした3台の190E 2.3-16は、燃料補給とドライバー交替時のピットストップを除いて、240km/hを超える平均速度で走り続け、8日目早朝に目標であった5万kmを突破した。所要時間は201時間39分43秒、参加したドライバーは予備役も含めて18人という。平均燃費は5km/Lで、高性能モデルとしては例外的に良い。この時のレコードカーは、ダイムラー・ベンツのミュージアムに収められている。

■市販化された190E 2.3-16の内容は−−

 高速耐久テストをはじめ、多くのイベントを経て、190E 2.3-16は1984年9月から市販モデルの本格的な生産が開始される。ダイムラー・ベンツでは、それまでに小型高性能車販売の経験はなく、市場での動向が心配されたが、1985年中に8000台を売り切り、その後も注文は引きも切らず、生産が注文に追いつかない状況だった。

 190E 2.3-16に搭載されるエンジンは、基本的な部分は量産型の190Eに使われているM102と呼ばれる水冷直列4気筒だが、コスワース・エンジニアリングによって徹底的なチューニングが加えられ、排気量はオリジナルの1995ccから2297ccへと拡大され、シリンダーヘッドはチェーン駆動のDOHC16バルブとなっている。燃料供給システムはボッシュ製K-Eジェトロニック(メカニカル/エレクトロニック・コントロール)燃料噴射装置を備え、9.7の圧縮比で最高出力175ps/5800rpm、最大トルク22.9kg・m/4750rpmを発揮した。

室内はスポーツシート標準。メーターを増設

 駆動方式はフロント縦置きエンジンによる後2輪駆動で、4輪駆動の設定はない。トランスミッションは5速マニュアルのみの設定(後に4速オートマチックが加わる)。サスペンションは前がストラット/コイルスプリング、後ろが5リンク/コイルスプリングで、油圧式車高調整装置が備えられる。スプリングレートやダンパーの強さなどは大幅に強化された。ブレーキは4輪ディスク、ステアリングはパワーアシスト付き、装着タイヤは205/55VR15サイズ。LSDは標準で装備される。

 ボディ外装は前後に専用デザインの大型スポイラーやサイドスカートなどが付き、もともとハイレベルだった空力特性を大幅にリファイン。トランクリッド右側には2.3-16のエンブレムが貼られる。室内ではスポーツシートや小径革巻きステアリングなどを装備。センターコンソールには油温計などの計器類が増設された。

 190E 2.3-16は日本でも1986年から販売され、高い人気を集めた。名車の1台である。

COLUMN
エンジンのチューンアップを担当した英国メーカーのコスワースとは−−
 190E 2.3-16に搭載するW102(1023)型2297cc直4DOHC16Vエンジンを生み出したのは、英国に居を構えるコスワース(Cosworth)社だった。 創業者のマイク・コスティン氏とキース・ダックワース氏(共に元ロータスのエンジニア)の姓を組み合わせて命名されたコスワース社は、レース用エンジンの開発のため1958年に発足する。メインの取引先となったのはフォードで、同社からは資金援助も受けた。ほかにも、今回ピックアップしたメルセデス・ベンツをはじめロータスやオペル、アウディなどがコスワースとのエンジン共同開発を敢行。日本メーカーでは日産や富士重工などがコスワース製パーツを使用した。 コスワースの名機といえば、F1用のV8ユニット「DFV」が筆頭に挙がる。ハイパフォーマンスで耐久性が高いうえに、チューニングもしやすかったDFVエンジンは、1967年開催のオランダGPにおいてF1初勝利(マシンはロータス49。ドライバーはジム・クラーク選手)。その後、ティレルやブラバム、ウィリアムズ、マクラーレンなど多くのチームで使用され、F1通算勝利数は単一型式としては歴代最高の154勝を記録した。名ドライバーのジャッキー・スチュワート氏は、後に「DFVのおかげでドライバーが皆同じ条件で競えた」と賞賛の言葉を残している。