東京オートサロン01 【1983,1984,1985,1986,1987】

チューニングカーが集う自由な祭典

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専門誌の熱意が開催の原動力に

 ホンダ・シビック/バラードが日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、新車の初回車検時期が2年から3年になり、名門ロータスのコーリン・チャップマンが他界した1983年、チューニングカーの祭典、「東京エキサイティングカーショー」が始まった。現在300もの企業や団体、学校らによる600台を超える出展車両を見るために、約25万人の来場者を集める国内最大級の自動車イベント、「東京オートサロン」の前身である。

 会場は東京・晴海にあった東京国際貿易センターで、当時、東京モーターショーが開催されていた会場と同じである。過去も現在も、オートサロンといえば正月の風物詩だが、1月第2週の週末3日間に会期が設定されたのは、周辺道路の交通に配慮したためと、会場の空き具合を勘案したためと言われている。

 さて、チューニング&カスタマイズカーの祭典へと成長する東京エキサイティングカーショーは、チューニング雑誌の老舗で1982年に創刊した「オプション」(三栄書房)が開催の原動力となった。当時編集長を務めていた稲田大二郎氏の「年間総集編を生で見せる」という大胆な発想がもとになっている。
 また、当時は改造車といえば暴走族と短絡的に結びつける傾向が強かったため、チューニングカーやカスタマイズカーは健全なカルチャーであることを主張する意味合いもあった。

多彩なチューンドカー100台が集結

 第1回東京エキサイティングカーショーはおよそ100台の展示車両で船出した。展示車両の中には、角形4灯ランプで表情を一変させ、ツインターボ化で300ps近いパワーを手に入れたセリカXXや、トリプルターボ化した1G-G型エンジンを積むセリカXXなど、当時流行のターボチューンを施した車両が目立った。また、ピアッツァを題材に外観をスタイリッシュにドレスアップした車両も登場。チューンとドレスアップを両輪とするイベントの傾向は、第1回から確立されていたといっていい。

 大会名誉会長はモータースポーツに造詣の深いハードボイルド作家の大藪春彦氏(故人)が務めていたが、大藪氏は第1回の盛況を目の当たりにして、「僕の想像していた以上に各マシンの仕上がりは素晴らしい。正直言ってびっくりした。暴走族とは違うこういったクルマの楽しみ方は今後も大事にしていきたいね」というコメントを残した。

 本革巻きステアリングやアルミホイール、偏平タイヤにテールパイプのフィニッシャーなどは、現代の新車にとってはごく当たり前の装備だが、当時は一部の上級モデルに限られた装備。若者は必要最低限の装備しか取り付けられていない中古車を手に入れては、お気に入りのチューンやドレスアップで、自分なりの個性を愛車に投影した。そうした気運が盛り上がろうとしていたところに、東京エキサイティングカーショーの開催である。時代のムードとマッチしたため、イベントは初回から大変な盛り上がりを見せた。

本物のF1も展示。出展車両は増大の一途

 1985年の第3回では、オプションパーツ&アクセサリーを促進させる企画として「カスタムカーコンテスト」「85チューン&ドレスアップカーオブザイヤー」を設定。会場で受賞車(者)を発表するなど、積極的なイベント盛り上げを実施した。100台以上の車両が展示されたが、サプライズ展示車両として、1984年からF1に本格復帰を果たしたホンダ製エンジンを積む「ウィリアムズFW09」が用意された。

 1986年に開催された第4回では、展示車両が120台に増加。コンテストは「ドレスアップカー」「チューニングカー」「カスタム・ドレスアップカー」「カスタムカー」の4部門に細分化されるなど、ショーの発展を感じさせる。
 また、会場のアンケートに回答するとプレゼントが当たるのが東京エキサイティングカーショーの名物のひとつだったが、この年の特賞はマツダスピードの特性エアロキットを装着したファミリア。東京エキサイティングカーショーは、町のチューニングショップが生んだ力作が主役ではあったが、騒ぎを聞きつけた自動車メーカーは、早くもその動きに目を付け始めていたのである。