首都高速の歴史03 【1977〜1989】

横浜港ベイブリッジ/最新技術を結集した大規模な橋架工事

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横浜市の慢性的な渋滞

 モータリゼーションの発展とともに、急速に路線を延長した首都高速道路。その道路網は、1977年までには神奈川県の横浜市中心部にも到達した。
 一方、横浜市内、とくに中区や鶴見区周辺などの湾岸地域の道路網はまだまだ貧弱だった。かつてアメリカ軍による接収エリアが多かったため、近代的な道路整備が遅れていたのである。時は物流が盛んな高度成長期。横浜市街地の渋滞は、慢性的なものとなっていた。

 この状況に対し、横浜市や道路局、そして住民は都市計画の構築を国に訴える。その陳情は1977年8月に結実し、道路網の整備として横浜港横断橋を建築する旨が決定した。

新しい橋架技術を結集

 新しい橋は、首都高速湾岸線計画の延長線上に当たる鶴見区大黒埠頭から中区本牧埠頭に架けられる決定が下される。しかし、架橋地点の建設条件は楽なものではなかった。湾の底は深く傾斜した土丹層で、しかも軟弱な地層が厚く堆積する。また横浜は日本有数の港であるため、航行船舶の数も非常に多い。工事の安全性と確実性、そして工期の短縮などを踏まえると、決して順風満帆といえる計画ではなかった。

 建設工事を効率よく、しかも安全確実に行うために、首都高速道路公団の工事事務所は新しい技術を積極的に導入する決断を下す。そして橋自体は、多柱式基礎構造形式を採用する3径間連続トラスの斜張橋に決定した。

 1980年11月、いよいよ新しい橋の建設が着工される。まず支持部となるコンリートバージを、横浜市金沢区の埋立地を掘削し地盤補強した専用ヤードで製作(基礎構造部材のプレキャスト化)。同時に架橋地点では設置ガイドや支持杭、海上作業台などの建設を行った。コンクリートバージが完成した後に船で曳航。架橋地点に到着すると、注水して支持杭上に着底させた。これを基にプレスキャストコンクリートケーソンを大型クレーン船で建て込み、さらにその上部から掘削などを繰り返す。この工程には、新開発のアーム式水中掘削機が使用された。すべてのコンクリートケーソンを沈設した後、フーチングの構築やアンカーフレームの設置などを行う。そしてコンクリートバージ内にコンクリートを中詰めし、下部構造を完成させた。

 次はいよいよ上部構造の建設だ。まず陸上部であらかじめ主塔下部をブロック状に製作し、大型クレーン船で架橋地点に運んで組み立てる。この際、主塔のブロック架設には新しい溶接方法が用いられた。側径間桁や主桁中央径間の架設は、陸上で地組→架橋地点に運搬→大型クレーンで架設(側径間桁は相吊り式、主桁は片持式の工法を採用)という手順を踏む。主桁を架設して閉合した後は、いよいよ最終作業。ガードレールや照明などの付属施設を設置し、道路の舗装と表示書きを実施した。

観光スポットとしても有名に

 1989年9月、ついに中区の本牧埠頭と鶴見区の大黒埠頭を結ぶ大型斜張橋の供用が開始される。橋の名称は「横浜ベイブリッジ」。長さ860m、中央支間長最大460mの規模は当時の日本の斜張橋で最長だった。
 風光明媚、しかも日本最長の斜張橋とあって、開通当初は駐車禁止の首都高速にもかかわらず、駐車車両が多く見受けられた。また大黒側に設けられたパーキンエリアも、観光スポットとして多くのクルマが集まった。

 横浜ベイブリッジは1994年に入ると高速湾岸線と直結し、横浜から都心、さらに千葉方面までつながる主要高速に発展する。さらに2004年には、橋の下層部に国道357号線の一般道も開通した。
 横浜と東京を結ぶ物流のメインルート、そして横浜市内の渋滞緩和を目的に建設された横浜ベイブリッジは、道路建設技術の向上という点でも大きな役割を果たした。首都高速網の拡大における一大事業として、この架橋工事は大きな意味を持つのである。