人物・生沢徹 【1948〜】

スカイライン神話を樹立したスーパーヒーロー



モータースポーツ黎明期から活躍した逸材

 黎明期の日本モータースポーツ界のスーパースター、それが生沢徹選手だ。記憶に残る名レースでは主人公として必ず登場し、その卓越したテクニックで周囲を魅了した。生沢選手ほどモータースポーツの魅力を伝えたドライバーはいない。

 1948年に著名な日本画家、生沢朗の長男として誕生した生沢徹のモータースポーツとの関わりは、1958年から始まる。浅間高原で開かれた2輪の第1回クラブマンレースに出場。16歳とは思えない優れたテクニックと思い切りのよさで注目されたのだ。その後トーハツやホンダで2輪レース活動を展開し、日本大学芸術学部に在学中の1963年にプリンス自動車と契約、4輪のレーシングドライバーに転向する。

運命の7周目、ポルシェを抜き去った生沢選手

 生沢の名声を決定的にしたのはスカイラインGTで出場した1964年の第2回日本グランプリだった。前年のグランプリで惨敗を喫したプリンス自動車は、グランプリ制覇のためスカイライン1500のボディにグロリア用6気筒エンジンを積んだ2000GTを急遽開発し必勝態勢でグランプリに臨む。しかしその前に立ちはだかったのが、ポルシェ904。トヨタの契約ドライバーでもあった式場壮吉選手がプライベート輸入したスーパーマシンである。6気筒エンジンを積んでいたとはいえ、急造したセダンベースのスカイラインGTと、生粋のレーシングサラブレッドのポルシェでは戦闘力の差は誰の目にも明らかだった。

 しかしレースとは筋書きのないドラマ。ポルシェは予選でまさかのクラッシュをし、満身創痍の状態で本戦グリッドに並ぶ。それでも速さは一級品で、スタート後トップを奪ったのは式場選手のポルシェ。それを生沢選手のスカイラインGTが猛追する。鈴鹿サーキット全体にどよめきが起きたのは7周目。周回遅れの処理に手間取った式場選手の隙をつき、生沢選手のスカイラインGTがポルシェを抜いてトップに立ったのだ。ヘアピン前でポルシェをかわした生沢選手は、鈴鹿名物のスプーンやバックストレートでも首位を譲らず、大観衆の待つホームストレートにポルシェを従えて戻ってきた。

 性能に圧倒的に勝るポルシェを抜き去った生沢選手のスカイラインGTに鈴鹿の大観衆、そしてTVでこの熱戦を見ていたファンは惜しみない拍手を贈った。それは戦後、日本の自動車技術の復興を日本中に印象づけた一瞬でもあった。この瞬間、現在まで続くスカイライン神話、そして生沢選手の名声は確立した。
 式場選手のポルシェは8周目にはトップを再び奪い、残り周回を独走し見事に総合優勝を飾る。生沢選手は、その後に僚友の砂子選手のスカイラインGTに抜かれ、結局は3位に止まった。しかし第2回日本グランプリでの真の勝者は生沢選手だった。彼の卓越したドライビングが日本中に勇気を与えた意義は優勝以上の価値があった。

浮谷東次郎選手の伝説レースでも主人公に!

 翌年、1965年にも生沢選手は名ドラマを演出する。7月に船橋サーキットで行われた全日本自動車クラブ選手権レースにホンダS600で出場した生沢選手は、序盤で大きく順位を下げた浮谷東次郎選手のトヨタスポーツ800の猛追に合い、終盤トップを明け渡したのだ。日本のレースシーンのなかで名勝負に数えられる浮谷選手の鬼神の追い上げの、最後の餌食となったのが生沢選手だったのである。プライベートでも親交のあった浮谷選手の走りを、生沢選手はレース後、高く評価したという。彼は勝利に執着するだけでなく相手をたたえる広い度量を持った生粋のスポーツマンと言えた。

プライベート参加の生沢選手に微笑んだ“勝利の女神”

 生沢選手はその後ヨーロッパでのレース活動を開始し、1967年の第4回日本グランプリにはポルシェ906で参戦。日産(そして古巣のプリンス自動車)が全力を傾注したレーシングプロト、R380の前に立ちはだかる。コースレコードでポールポジションを獲得した生沢選手のポルシェは、序盤からトップを激走。高橋国光選手のR380を必死に押さえる。

 しかし運命の18周目、生沢選手はS字コーナーで痛恨のシフトミスを冒しスピンを喫する。背後に迫っていた高橋選手も巻き込まれてスピン。ともにコースアウトしてエンジンが止まった。生沢選手のポルシェはすぐにエンジンが掛かりコースに復帰するが、高橋選手のR380はエンジン始動に手間取り大きく遅れた。結局このスピン後のリカバリー差が決定的となり、生沢選手のポルシェが見事にトップでチェッカーフラッグを受けた。

 物量に勝るワークス参戦の日産勢をプライベート参加で破った生沢選手はスーパーヒーローとなった。甘いマスクとも相まってその人気は国民レベルとなり、ファッションヒーローとしても注目された

 以降、生沢選手はレース活動の主体をヨーロッパに移し、欧州F3選手権などに積極的に参戦。1969年までに8回の優勝を飾った。1968年にはポルシェ・ワークスチームの一員としてもレースに参加し、ワトキンスグレン6時間レースでは6位に食い込んでいる。ドライバーとしての現役引退後は、自らレーシングチームを運営し、中嶋悟選手を発掘する。生沢選手が日本のモータースポーツ界に与えた功績は計り知れない。時代の状況が許せば日本初のフルタイムF1ドライバー、そしてF1チームオーナーになっていたのは生沢選手だったに違いない。生沢選手は、日本が世界に誇るサムライのひとりである。