日本車輸出の歴史01/日産 【1941—1973】

オーストラリア・ラリーがもたらした自信



タイ向け輸出が出発点

 抜群の信頼性と優れたパフォーマンスにより世界中で愛されている日本車だが、輸出の道のりは平坦ではなかった。

 日産自動車の本格輸出の第一歩は、1941年にニッサン180型トラックを100台タイ向けに送り出したことだった。しかし、その後は戦争の波にもまれ、戦後の1948年にようやく輸出を再開する。しかし、台数は微々たるもので、ビジネス・ベースの活動とは呼べなかった。企業として輸出を意識するようになったのは1955年頃。オースチンのノックダウン生産で技術を磨き、純戦後型のダットサン110型をリリースしたタイミングだった。

オーストラリア・ラリー優勝がもたらしたもの

 さまざまな努力を重ねるなかで、ようやく輸出が本格化したのは1958年。飛躍のきっかけとなったのは、ダットサン120型の「オーストラリア・ラリー」での勝利だった。オーストラリアの大地を19日間で1万6000km走行する過酷なラリーでダットサンは見事にパフォーマンスを実証。2台出場したうちの富士号は、強豪を押しのけクラス優勝を飾り、もう1台の桜号もクラス7位に食い込む大健闘を見せた。

 ラリーでの栄光は、日産自動車に大きな自信を与えたばかりでなく、ダットサンの優秀性を全世界にアピールすることになった。もともとこのラリーへの出場は、世界市場に向けての準備という目的を持っていた。出場のきっかけは「輸出で成功するためには、自分たちのクルマが世界の名車に対して、どのくらいのレベルにあるのかをきちんと知る必要がある」という若手技術者の声だったのだ。日産自動車はラリーで得た貴重な経験を、すぐに生産車にフィードバックし、クルマの完成度を引き上げる体制を確立する。

 オーストラリア・ラリーの勝利は、対米輸出スタートにもプラスに働いた。性能的には世界のライバルを凌ぐという裏付けが取れたからである。その後、輸出はしだいに順調となり、1958年に3000台にすぎなかった輸出台数は、1963年には4万5000台を数えるまでになる。

ミスターKの奮闘

 対米輸出発展の功労者は“ミスターK”こと片山豊だった。片山豊は前述のオーストラリア・ラリーの出場にも尽力し、チーム監督を務めた人物。現在の東京モーターショーの基礎を築いたのも片山だ。日本のクルマ文化を語るには欠かせない存在で、アメリカの自動車殿堂入りを果たした数少ない日本人のひとりである。

 片山は50歳で単身アメリカに飛び、苦労の末に日産の対米輸出の基盤を築く。アメリカでの販売は当初、三菱商事や丸紅などの商社が担当する予定だった。しかし実際はうまく運ばず、片山の進言により日産自身が直接販売を行う「アメリカ日産」を設立することになる。片山は西海岸を統括する副社長に就任し、ディーラー網の開拓から販売車両の改良アドバイス、販売プロモーション企画の立案まで、すべてを精力的にこなした。

 最初の仕事はディーラー網の構築だった。しかし知名度がまったくなくクルマ自体の性能も見劣りしたダットサンは、既存の新車ディーラーでは、まったく相手にされなかった。ディーラーがなくては売れるわけはない。そこで片山は見込みのある中古車ディーラーに飛び込み、ダットサンの魅力を直接アピール。少しずつディーラー網を整備していった。

 中古車ディーラーの経営者は、本心では新車の販売を行いたいのだが、資金的な面などで中古車を扱っているケースが多かった。だから片山の熱心な説明に共鳴を受け、ダットサンを扱うことで新車ディーラーの仲間入りをしようと決断する経営者が現れた。しかし彼らもダットサンを売るのには大変な苦労をした。当時のアメリカ車と比較して、あまりにダットサンの性能がプアーだったからだ。

 片山自身もアメリカでダットサン110セダンをドライブし、ブレーキの利きの悪さに肝を冷やしたと述懐している。当初ダットサンのディーラーに名乗りを上げた経営者たちは、日産車の将来に夢を託した、いわば同志的な繋がりだったらしい。

壊れない日本車の出発点

 片山は、クルマは生活の道具であるアメリカで、きちんとした評価を受けるためには、なにより壊れないことが大切と痛感し、日本本社に積極的にクルマの改良を進言する。同時に、壊れてもすぐに修理が可能なサービス&部品供給システムを構築した。最終的にはIBMのコンピューターを取り入れ、10のパーツデポから1000店とオンラインで結び、36時間以内に部品を供給するシステムを作り上げた。

 これは当時のアメリカンメーカーよりも一歩進んだシステムだった。さらにアメリカでダットサンの知名度を上げるイメージカーとしてスポーツカーの導入を決断。その熱い想いはフェアレディとして結実し、後に“Z-CAR”としてベストセラーとなるフェアレディZへの序章を準備することになった。

 さまざまな努力の結果、1973年には輸出総台数は71万台に増大。このうち北米・欧州の販売比率は1963年の30%から63%に達した。車両の内訳も1963年には乗用車より商業車が多かったが、1973年には乗用車73対、商業者27となり、乗用車中心の輸出へと変化した。輸出台数の増大は、日産車が国際ブランドとして世界から評価されたことのなによりの証明だった。