コスモAP 【1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981】
ロータリー車復権を果たした “真っ赤なコスモ”
1973年10月に第4次中東戦争が勃発。国際石油各社は原油価格の引き上げと供給量の制限を実施する。その影響は当然、資源小国である日本に波及し、原油価格は3カ月で約3.5倍に上昇した。自動車メーカーは電力供給量の制限や猛烈なインフレ、ガソリン価格の高騰に苦しむことになる。とくに東洋工業(現マツダ)に対する風当たりは強く、「燃料消費の多いロータリーは悪いエンジン」というレッテルが貼られた。アメリカ市場でも同様の評判が広まり、マツダ車の販売台数は大幅に下落した。
ロータリーエンジン車の下降ムードのなか、「東洋工業はロータリーの生産を中止する」という憶測が流れる。しかし、東洋工業の技術陣はロータリーを諦めなかった。ロータリーは本来レシプロよりもロスが少なくて効率がいい。入念な改良さえ施せば、燃費がよくてクリーンなエンジンに仕上がる−−そんな信念を持っていたのだ。もちろん、せっかく苦労して実用化したロータリーエンジンをこのままお蔵入りにしてしまうのは納得できない、という意地もあった。
技術陣は早速、ロータリーエンジンの改良に着手する。主な改良ポイントは、薄い混合気で完全燃焼を達成する、いわゆる希薄燃焼だった。これを実現するために、まずアペックスシールやコーナーシールなどガスシールを改善。さらに、サーマルリアクター(排気ガス再燃焼装置)の反応性を見直し、2次エア供給の再調整も実施した。こうしたロータリーエンジンの低公害技術は“REAPS(RE ANTI POLLUTION SYSTEM)”と総称する。完成した13B型(654cc×2ローター)と12A型(573cc×2ローター)は、昭和50年初期モデルに比べて約40%の燃費改善を達成した。
ロータリーエンジンの低公害化を図る一方、技術陣はVC型1769cc直列4気筒OHCのレシプロエンジンの排出ガス対策にも精力的に取り組む。核となる対策技術はレシプロ用に新設計したサーマルリアクターで、これにより有害成分のHCやCOを大幅に削減した。さらにEGR(排気ガス再循環装置)やFFCS(燃料流量制御装置)、3元触媒なども順次開発。これらを“CEAPS(CE ANTI POLLUTION SYSTEM)”と称し、市場にアピールした。
ロータリーエンジンの改良には目処がついた。あとはロータリー車の悪いイメージを払拭しなければならない−−。東洋工業はこの戦略として、まっさらな新型車のリリースを計画する。その役割を担ったのは、ロータリーエンジン搭載車の第1号で、1972年9月に生産を中止していた「コスモ・スポーツ」の実質的な後継となるフラッグシップモデルだった。
1975年10月、“GTを超えたラグジュアリースポーツ”を謳う「コスモAP」(CD型)が発表される。APは“アンチ・ポリューション”の略で、低公害・低燃費を意味した。グレード展開は上位からリミテッド、スーパー・カスタム、カスタム、カスタム・スペシャルの4タイプをラインアップ。昭和51年排出ガス規制をクリアしたエンジンは最上級のリミテッドに13Bロータリーユニット(135ps/19.0kg・m)を搭載し、ほかに12Aロータリーユニット(125ps/16.5kg・m)とVCレシプロユニット(1769cc 、100ps/15.2kg・m)搭載車を設定する。トランスミッションには5速MT/4速MT/3速ATを組み合わせ、駆動レイアウトは信頼性の高いFR方式を採用した。
コスモAPのボディは2ドアクーペ。ロー&ワイドでロングノーズのスタイリングを特徴とする。センターピラーの中央に配置した印象的なサイドウィンドウ、1000R(曲率半径1000mm)の曲面フロントガラス、低く寝かされたフロントピラー(ピラー傾斜角39度)などのアレンジも斬新だった。空力特性にも優れ、Cd値(空気抵抗係数)は0.38と欧州製スポーツカーに匹敵する数値を実現する。
プラットフォームは既存のルーチェ用をベースに徹底した改良を施し、懸架機構はフロントにA型ロアアームを持つマクファーソンストラット/コイル、リアに前後方向4本、左右方向1本のアームを配した5リンク/コイルを採用。リミテッドには前後スタビライザーを採用した(そのほかのグレードは前スタビライザーのみ)。ボディサイズは全長4475〜4545×全幅1685×全高1325〜1330mm、ホイールベース2510mmに設定。ブレーキは4輪ディスク(前はベンチレーテッド機構付き)を奢る。インテリアは、スポーティで高級感あふれる作りが訴求点。とりわけリミテッドに装備したウッドステアリングやシフトノブ、サイブレーキレバー、メーターパネルが注目を集めた。
コスモAPは広告展開にも力を入れる。CMで流れた赤いボディカラー(サンライズレッド)が話題となり、“真っ赤なコスモ”が流行語となるほどだった。販売は絶好調で、1975年には6960台、1976年には5万8121台という高級スペシャルティカーとしては前代未聞の好セールスを記録する。スポーティかつ瀟洒なスタイリングや豪華な内装も人気の要因だったが、パワフルなのに燃費がいいロータリーエンジンの特性もユーザーから好評を博した。
コスモAPの大ヒットは、当時の東洋工業にとって久々に明るい話題だった。この勢いを何としても維持したい−−。首脳陣および技術陣はその一環として、コスモのバリエーションを増やす方針を打ち出す。まず1977年3月には、レシプロエンジンのMA型1970cc直列4気筒OHC(110ps/17.0kg・m)搭載車を設定。そして1977年7月になると、ボディ後半部の設計を見直した「コスモL」を発表した。
コスモLは基本的に2ドアノッチバックのボディ形状を採用するが、そのルーフ回りは独特だった。“ランドウトップ”と呼ぶビニールレザー張りトップ+ノッチバックのデザインに仕立てていたのである。この手法は往年の高級馬車の形式である「ランドウ」に範をとったもので、主にアメリカのラグジュアリーカーが好んで採用していた。日本車ではコスモLが初めて本格的に導入する。ボディサイズは全長4500×全幅1685×全高1340〜1345mmに設定。ランドウトップ自体はボディカラーに合わせて、ホワイト/ブラック/ブラウン/グリーンで彩っていた。
コスモLのグレード展開は、上位からリミテッド、スーパー・カスタム、カスタム、カスタム・スペシャルの4タイプを用意する。エンジンやトランスミッションは基本的にAPと共通。また車両価格はAPに対して数万円ほど高く設定し、コスモ・シリーズの最高級車である事実をプライス面からも主張していた。
コスモLはAPとともに1979年9月に内外装のマイナーチェンジが実施され、ヘッドランプを丸型4灯式から角型2灯式に変更する。角型2灯を配したシックなフロントマスクは、APよりもLのほうが似合っていると市場では評された。
コスモ・シリーズは1977年9月から12月にかけてレシプロエンジンが、翌1978年以降にロータリーエンジンが最も厳しいとされた昭和53年排出ガス規制を克服し、低公害車としての完成度を高めていく。そして、1981年9月から10月に渡ってフルモデルチェンジが実施され、4代目ルーチェの兄弟車となるHB型系の第3世代コスモに移行した。
約6年に渡って生産された第2世代のコスモは、当時の高級スペシャルティカー・カテゴリーのクルマとしては異例に多い販売台数を記録し、東洋工業にとってオイルショック後の救世主となった。同時にロータリーエンジンのイメージ回復にも大きく貢献し、復権を担う重責を果たす。その意味で2代目コスモ・シリーズは現在のマツダ、そしてロータリーエンジン車を語るうえで、欠かすことのできないシンボリックな名車である。