日産の歴史3 第三期/1973-1984 【1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984】
排出ガス規制の克服と車種の拡大
他メーカーと同様に石油危機による供給制限と
排出ガス規制への対応に苦慮することになる。
難題を克服した同社は、1970年代末ごろから
車種展開の拡大と施設の増強を実施し、
トヨタへの追撃体制を構築していった──。
1973年10月6日に勃発した第4次中東戦争を引き金に、国際石油各社は石油価格引き上げと供給量の制限を実施するようになる。日本では猛烈なインフレが進み、電力節減やガソリン供給制限などが加わって、自動車業界は大打撃を受けた。同時にもうひとつ、日本の自動車メーカーに深刻な課題が突きつけられる。公害問題に端を発した排出ガス規制への対応だ。アメリカで可決された大気汚染防止法(マスキー法)や日本での排出ガス規制をクリアするために、各社は心血を注ぐことになる。
そんな状況の中、日産自動車はまず排出ガス規制をクリアできないエンジンの生産を中止する。レーシングエンジンの市販版として世に出たスカイラインGT-R用のS20型は、この時点で廃止となった。さらに開発陣は、エンジン排気量の大きさを3段階に分けて排出ガス規制への対応デバイスを開発していく方針を打ち出す。このほうが画期的な技術を研究・開発するよりも短時間で、しかも低コストで済んだからだ。この方針は多くのエンジンを持つトヨタ自工も採用していた。
開発陣が当面の目標に置いたのは、最も厳しいとされる昭和53年規制への対応だった。セドリック級の大型エンジンには新開発の電子制御式燃料噴射装置と3元触媒を装着する。サニー級の小型エンジンは従来型ユニットの一部改良と酸化触媒の装着で規制値をクリアできた。凝った機構を導入したのはブルーバード級の中型エンジンで、点火栓を2個に増やして火炎伝播距離を短縮した2点火栓急速燃焼システムを採用する。これに排気デバイスの酸化触媒を装着して、厳しい規制値を克服した。
日産自動車は排出ガスの対応技術を模索しながら、同時に車種展開の拡大や新型車の開発も徐々に進めていく。1973年1月には510型ブルーバードの実質的な後継車となるバイオレットがデビュー。同年5月にはサニーを、8月にはプレジデントを新型に切り替えた。1974年は9月にチェリーがフルモデルチェンジしたのにとどまる。1975年に入ると6月にセドリック/グロリアがモデルチェンジ。10月にはシルビアが復活した。
排出ガス規制の対応にある程度の目処がついた70年代後半にかけては、新型車が矢継ぎ早にデビューする。1976年7月に810型ブルーバードが登場。1977年8月にはスカイラインが、10月にはサニーが新型に移行した。さらに1978年5月にはチェリーの後継となるパルサーがデビューし、同年8月にはフェアレディZもモデルチェンジする。1979年にはシルビア、セドリック/グロリア、ブルーバードが新型に切り替わった。
1980年代に入ると、新しい車種のデビューが注目を集めるようになる。1980年9月には日本初の大型スペシャルティカーとなるレパードが登場。1982年10月には日産車のボトムラインを支えるベーシックカーのマーチが発売された。さらにこの時期は、新型に切り替わったスカイラインやフェアレディZなどの高性能化も大きな話題となった。
1970年代後半から1980年代前半の日産は、海外戦略の面でも転換期を迎えた時代だった。1976年3月には豪州日産製造を設立。1979年4月にはアメリカに日産デザインインターナショナル社を設置する。さらに1980年1月にはスペインのモトール・イベリカ社に資本参加した。このころには輸出ブランド名を「NISSAN」に統一する方針も打ち出す。英国に進出したのは1984年4月。その7カ月後には追浜(神奈川県)の専用埠頭も完成した。
国内外で勢いが増したかに見えた日産自動車だが、経営状態はあまりよくなかった。労使関係が主な原因とされているが、とにかく赤字の累積は1980年代前半に入っても拡大していく。1980年代後半は、その打開に苦心する時代となった──。