フェアレディ1600 【1965,1966,1967,1968,1969】
100マイルカーの仲間入りを果たしたSP311
従来のスタイリング重視路線からハイパフォーマンスを誇る本格スポーツカーへと変貌を遂げたSP310型系の「フェアレディ1500」。トランスミッション後部にX型のクロス・ブレーシング・メンバーを追加した専用シャシーにスポーティなオープンボディを被せ、セドリックに積んでいたG型1488cc直4OHVエンジンや2〜4速にシンクロをもつフロアシフト式4速MTなどを組み込んだフェアレディ1500のキャラクターは国内外で好評を博し、次第に販売台数を伸ばしていく。生産台数ではデビュー当初の1962年が505台にとどまったものの、1963年は2734台、1964年は4350台に達した。輸出に向けられた比率も高く、1962年が全生産台数の42.3%、1963年が同61.3%、1964年が同57.1%を占める。つまり、フェアレディ1500は日産自動車にとっての重要な輸出製品に昇華したわけだ。
この好調さを維持しようと、日産の開発陣は積極的にフェアレディの改良に着手する。目指したのは、さらなる性能の向上。同時に、内外装もよりスポーティに仕上げることを目標とした。
フェアレディの改良を進める最中、日産の開発現場では別のプロジェクトも進行していた。フェアレディの基本コンポーネントを使用した新世代の高級クーペ(後のシルビア)を造ろうとしたのである。そのため、開発陣は改良版フェアレディと高級クーペの両車に使えるメカの開発を鋭意、推し進めた。
搭載エンジンについては、従来のG型に比べてよりオーバースクエアなボア・ストローク比を持つ“スポーツカー専用”のR型を開発する。ボア87.2mm×ストローク66.8mmの1595cc直4OHVは、燃料供給装置にHJB38W-3型キャブレターを2連装したうえで吸排気マニホールドの形状を変更し、90ps/6000rpmの最高出力と13.5kg・m/4000rpmの最大トルクを発生。また、コンロッドベアリングに特殊金属のF770を、メインベアリングにF550を採用し、耐久性を一段と高めた。
エンジンの高性能化に伴い、トランスミッションも強化される。4速MTにはポルシェ社が特許を持つボルクリング・タイプのサーボフルシンクロ機構を採用。変速比は第1速3.382/第2速2.013/第3速1.312/第4速1.000/最終減速比4.111(オプション3.889)に設定した。また、ディファレンシャルギアには大型タイプを、プロペラシャフトには高速型を組み込む。クラッチ機構も大幅に変更され、西ドイツ(現・ドイツ)のF&S(フィヒテル・ウント・ザックス)社製ダイヤフラム式クラッチを新採用した。
足回りはフロントがウイッシュボーン/コイル、リアが半楕円リーフと従来のSP310型系と同形式なものの、エンジンの高出力化に合わせて専用チューニングを実施する。同時に、フロントブレーキには住友電工製のダンロップ・マーク㈼ディスクブレーキ(ディスク径284mm)を採用し、制動性能を高めた。また、タイヤサイズは従来の5.60-13-4Pから5.60-14-4Pに引き上げ、フロントトレッドも57mmほど拡大(1270mm)させる。
エクステリアは、ラジエターグリルの横3本線化とホイールキャップのデザイン変更、モールディングの一部簡略化を実施し、外観によりスパルタンな印象を与える。ソフトトップの操作性の改良やワイパーの高低2速化など、機能性も引き上げた。インテリアでは、従来型のインスツルメントパネルを踏襲しながら“トゥ&ヒール型”ペダルや球形シフトノブを装着し、ドライバーの操作性を向上させる。また、オプションとしてハードトップ/トノカバー/フォグランプ/オーバーライダーなどを用意した。
基本メカニズムを共用する高級クーペの「ニッサン・シルビア」(CSP311型系)が市場デビューを果たしてから2カ月ほどが経過した1965年5月、SP311の型式をつけた「フェアレディ1600」が発売される。車両価格は従来モデルより5万円アップの93万円(東京標準価格)に設定した。
市場に放たれたSP311型フェアレディ1600で、ユーザーがまず注目したのはその最高速度だった。公表された数値は165km/h。ついに100マイル(160km/h)カーの仲間入りを果たしたのである。また、SS1/4マイル加速は17.6秒を記録し、欧州製の1.6L 級スポーツカーを凌駕するスペックを誇った。
SP311型フェアレディ1600は従来のSP310型系と同様、モータースポーツシーンにも積極的に活用される。なかでも脚光を浴びたのが、高橋国光選手のドライブによるSP311だった。
1958年に浅間サーキットで開催された第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースでクラス優勝し、1961年から'63年にかけて二輪の世界GPに出場して名を馳せた高橋国光選手は、1965年に四輪レースの世界に転向して日産のチームに所属する。そして、開設したばかりの富士スピードウェイで1966年3月に行われた第4回クラブマンレースにおいて、SP311型フェアレディ1600を駆って出場。スカイライン2000GTなどの並いる強豪を抑え、見事にポール・トゥ・フィニッシュを飾った。それから1カ月半後に開催された第3回日本グランプリのGTクラスにおいても、高橋国光選手+SP311はポルシェ911やロータス・エランなどを凌駕してポディウムの頂点に輝く。このとき、2位には粕谷勇選手のドライブするSP311が入り、見事SP311が1-2フィニッシュを成し遂げた。
高性能化を達成し、かつレースシーンでも大活躍したSP311型フェアレディ1600は、従来型以上に国内外での好評価を獲得し、日本製スポーツカーとしての名声をいっそう高める。ただし、スポットライトが集中する期間はあまり長くはなかった。1967年3月にU20型1982cc直4OHCエンジン(145ps/18.0kg・m)+フルシンクロ5速MTを採用するSR311型「フェアレディ2000」が追加設定されたからだ。国産車初の200km/hオーバー(最高速205km/h)を達成したSR311は、SP311以上にレースシーンで活躍し、1967/1968年開催の日本グランプリ・GTクラスでは驚異の2年連続1-2-3フィニッシュを成し遂げる。また、他のイベントでもトップクラスの常連となった。
SR311の影に隠れてしまったSP311型フェアレディ1600。しかし、販売は従来通りに続けられ、またウインドシールドスクリーン高のアップやヘッドレストの装備、ハードトップモデルの追加といった改良もSR311と同様に実施されていく。継続販売された理由は明快。SR311よりも扱いやすく、完成度に優れていたからだ。当時の日産スタッフによると、「SR311はU20型エンジンの強力パワーに対し、足回りがついていかない場面があった。一方、SP311はトータル性能に優れていて、ワインディングなどでも気負うことなく気持ち良く走れた」という。結果的にSP311型フェアレディ1600は、次世代フェアレディのS30型系「フェアレディZ」がデビューする1969年まで生産が続けられたのである。
SP311型のフェアレディ1600が市場デビューを果たしてから10カ月ほどが経過した1966年3月、富士スピードウェイの開設を記念した第4回クラブマンレースが催される。その舞台に日産自動車は、SP311をベースに開発したスペシャルモデルの「フェアレディS」を参戦させた。トレッドを拡大した赤いボディに白のハードトップを被せ、左右フロントフェンダーの後部には5列の大きなルーバーを設けたフェアレディSは、動力源として“B680X”の型式を付けた2.0Lクラスの直列6気筒DOHCエンジンを搭載する。ヤマハ発動機が開発に携わったと言われるB680X型は、点火系に1気筒当たり2本のツインプラグ方式を、燃料供給装置にウェバーキャブレター3連装を採用し、最高出力は190psに達した。
田中健二郎選手のドライブでクラブマンレースを疾走したフェアレディSは見事にポールポジションをゲットするものの、決勝ではリタイア。同年5月に行われた第3回日本グランプリでは北野元選手がフェアレディSのステアリングを握り、雨中のコンディションでポールポジションを獲得するが、天候が回復した決勝ではピットインを繰り返した末にリタイアとなってしまった。後に熟成を重ねるかに見えたフェアレディSとB680X型エンジンだったが、同年にプリンス自動車工業を吸収合併して2.0Lクラスの直列6気筒DOHCエンジン(GR8型)を手に入れたことなどにより、結果的に開発は中止されたのである。