VWビートル 【1945〜2003】

世界中で愛されたドイツ生まれの偉大な“国民車”



1972年、T型フォードの生産記録を更新!

 1972年2月17日、ドイツ北方の工業都市、ウォルフスブルグのフォルクスワーゲン社の工場で、1500万7034台目のビートル(タイプI)が生産ラインを離れた。この瞬間に、それまで同一車種での最多量産記録を持っていたT型フォードの記録が塗り替えられた。T型フォードの市販は1908年から1927年までの19年間だが、ビートルはT型の記録を超えるのに1945年の発売開始から27年もかかったことになる。いずれにしても、ものすごい繁殖力である。

 1945年半ばに、ビートル(Beetle=かぶと虫)のニックネームで呼ばれる最初のフォルクスワーゲン・タイプIの生産が開始された。最初の年だけで1785台のビートルが生産されている。以後、ウォルフスブルグの工場は、ビートルと派生モデルであるトランスポーター(タイプII)と呼ばれたワンボックスタイプの生産のみを行っていた。この状況は1961年に3ボックススタイルのタイプIIIが登場するまで続いた。タイプIIIはビートルの上級版として企画されたモデルであり、フォルクスワーゲンとしては、しだいに販売の主力がタイプIIIへと移行するだろうと考えていた。しかしビートルの人気は絶大だった。タイプIII誕生後も世界中で売れ続け、メーカーはビートルに多くの改良を施し生産をますます増やしていった。

商品力を大幅に高めた1302シリーズの登場

 ビートルは毎年改良を加えていったが、なかでも大きく進化したモデルが1302シリーズだった。1971年モデルの1302シリーズでは、フロントサスペンションがそれまでの横置きトーションバー式からストラット/コイルスプリング式へと変えられた。1972年モデルの1302シリーズではインパネの意匠が変更され、同時にワイパーとウィンドウウォッシャーのスイッチがコラムに付けられた使い勝手に優れたレバー式となる。1973年モデルの1303シリーズでは、カーブドガラスのフロントウィンドウを採用するとともに、リアのエンジンフードにあるエア抜きのルーバーの数が増やされた。インテリアのデザインも一新され、平面的だったメーターパネルは大型の円形速度計を囲むクラスターを中心としたものとなった。一方、強固なスチール製バックボーンフレームの後部に水平対向4気筒OHVエンジンを置き、後輪を駆動する基本構造は変わらなかった。

 フォルクスワーゲン社は、ビートルに代わるべき車種の開発を進めてはいたが、なかなか具体化せず、また、タイプIII(1961年デビュー)や411(タイプIV。1968年デビュー)、K70(1970年デビュー)など、新しいフォルクスワーゲン製のモデルも登場してはいたが、ビートルの人気を超える車種には至らなかった。ビートルの生産は続けられた。メーカーが生産中止しようにも、高い人気のために止められない……こんな例は、最近ではポルシェ911シリーズに見られるだけである。

“国民車”構想がビートルの原点

 ビートルのルーツは、遠く第二次世界大戦前の1930年代にまで遡ることになる。この時期のドイツ自動車界は、経済的には決して豊かではなかった。第一次世界大戦の敗戦による国際的な信用の失墜や連合国側からの巨額な賠償などにより、国内経済は疲弊しており、自動車をはじめとして工業生産もままならない状況だった。そこへ彗星のごとく現れた、野心的な政治家がいた。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を率いるアドルフ・ヒトラーである。

 後のヒトラーとその一派による政治的、社会的な犯罪はともかく、ヒトラーは1940年に第二次世界大戦を勃発させるまでに、ドイツ国民に等しくクルマのある生活を与え、都市間交通の要としての高速自動車道路網(いわゆるアウトバーン)を建設することをマニフェストに掲げていた。彼は1934年ごろから、クルマのある生活への証として全く新しい経済的な小型車=国民車の生産を企画する。設計者として白羽の矢を立てたのは、1930年にシュツットガルトに自らの設計事務所を開いたばかりのフェルディナンド・ポルシェ博士だった。

ポルシェ博士の夢の実現だったビートル

 F・ポルシェ博士は、1875年9月3日にオーストリア(旧ハンガリー帝国)の支配下にあったボヘミア地方の町マッフェルスドルフに生まれた。ヒトラーから小型車の設計を依頼されたのは58歳のころだった。F・ポルシェは自動車設計を始めた当初から、小型で経済的なファミリーカーを実現することに強い希望を持っており、それまでにも何台かの試作車を設計していた。

 1923年にベンツ社と合併する以前のダイムラー社の主任設計者となり、1926年に両社が合併してダイムラー・ベンツ社となったが、F・ポルシェは引き続き主任設計者として迎えられている。しかし、ダイムラー・ベンツ社には小型ファミリーカー生産の計画はなく、またしてもF・ポルシェの小型車計画は陽の目を見ずに終わっていた。それがもとでF・ポルシェはダイムラー・ベンツ社と喧嘩をして辞め、生まれ故郷オーストリアのシュタイア社へと移る。そんな状況を経た後に、国家的な事業として小型ファミリーカーの設計と生産化の話が持ち込まれたのだ。F・ポルシェが快諾したことは当然である。また、注意しなければならないのは、自動車技術者であるF・ポルシェには政治的な意図は全くなかったということだ。

「KdF」の車名で市場デビュー

 小型ファミリーカー計画がスタートしてからおよそ3年後、ヒトラーがKdF(Kraft durch Freude=喜びのうちに力強くの意味)と名づけたモデルのプロトタイプが完成し、華々しく披露された。注目すべきは、当初からオープン仕様のKdFが存在したこと。ヒトラーはパレードにでも使うつもりだったのだろうか?

 このKdF生産のための新しい工場がウォルフスブルグに建設され、購入希望者は定期預金に似たシステムで債権を購入、満額になるとクルマが引き渡されることになっていた。1938年に始まった債券販売は、1940年までには33万人以上が未だ見ぬクルマの購入予定者となっていた。しかし、第二次世界大戦が始まると、ウォルフスブルグの工場では軍用車両の生産が開始され、1945年のナチス・ドイツの全面降伏まで、民間用のKdFはナチス高官用などを除いてほとんど造られなかったのである。集められた膨大な資金は、すべて戦争遂行の費用に充てられた。

国民車=フォルクスワーゲンとして再起

 第二次世界大戦が終結した時、ウォルフスブルグのKdF工場は、連合軍の空爆により6割がた瓦礫の山と化していた。しかし、この地を占領統括した英国軍の責任者であったアイヴァン・ハーストは、占領政策を成し遂げるための連絡手段としてクルマの必要性を痛感し、残された生産設備を使ってKdFの生産を始めた。まさかKdFの名は使えなかったから、KdFが本来あるべき姿を言い表した「国民車」のドイツ語表記である「フォルクスワーゲン(VOLKSWAGEN)」をそのまま車名とした。

 フォルクスワーゲンの生産は急速な発展を見せ、時間の経過とともにメーカーとしての運営を地元の人々に委ねていったこともあり、1946年10月には早くも1万台目のフォルクスワーゲン(ビートル)をラインオフさせるまでになるのだ。ビートルの躍進は、古今の自動車界の奇跡である。

VW社がカタログモデルとして採用した2台のオープン

 ビートルは、ドイツのコーチビルダーがさまざまなスペシャルモデルを作り出した。なかでもオープンカーは高い人気を集め、フォルクスワーゲン社は、社外のコーチビルダーが製作した2台のオリジナル車にVWの冠をつけて1949年より販売することとした。カロッセリー・ヘブミューラーが手がけた「ヘブミューラーカブリオレ」とカロッセリー・カルマンが製作した「カブリオレ」である。

 ヘブミューラーカブリオレは前後とサイドで分けたツートンのカラーリングに2シーターの室内アレンジなど、上質でエレガントな雰囲気を醸し出し、ビートルに新たな魅力をもたらす。1949年6月から本格生産を開始したカロッセリー・ヘブミューラーだったが、予想外の惨事が襲う。1949年夏に大火災が起き、工場の重要な施設を消失してしまったのだ。火災が原因でカロッセリー・ヘブミューラーは倒産。ヘブミューラーカブリオレの生産台数は696台にとどまり、ファンからは“幻のカブリオレ”と称されるようになった。

 一方のカロッセリー・カルマンが生産したカブリオレは、4シーター仕様。実用性を損なうことなく、爽快なオープン走行が楽しめた。カルマン製カブリオレは、1978年型の1303シリーズまで生産される。生産台数は約33万台に達した。