日産・新聞広告1945〜1958 【1945~1958】

急速な発展を遂げた戦後の日産車たち

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戦後トラック・バスからアピール

 戦後の日産の新聞広告は1946年6月に再開された。ただし具体的な車種の広告ではなく「ニッサントラック・バス」の文字とシンボルマークだけを配置した広告だった。1945年11月にニッサン車、1946年7月にダットサン車の戦後1号トラックが完成。乗用車の生産再開は1947年にやっと解禁され、8月に戦後初のダットサンセダンが作られた。しかし生産体制はまだまだ整わず、生産台数も非常に少なかった。そのため広告はほとんどみられなかった。広告意欲はあっても、販売するクルマそのものがなかったのである。

 状況に少し変化が現れたのは1949年11月、ダットサン・デラックスセダンDB型の発表だった。「自由に買える! 生産も順調になって参りました」という広告が小さいながらも新聞に掲載される。ただし新聞広告はまだまだ限定的だった。あっても単一車種の広告は稀で、乗用車からトラックまで、多くの車種がひとつの広告に盛り込んでいるのが普通だった。そのなかで目に付いたのは「70円で重役気分、タクシーは小型で快適なダットサン」とタクシーの効用を訴えた広告だ。タクシー客を増やしてダットサンの販売増をねらう戦略である。この時代、乗用車のメインユーザーはタクシー会社。乗用車が高嶺の花だった時代を象徴する広告だった。1952年の「ニッサン新車発表会」を告げる広告もメインビジュアルはトラック。しかも「平和の夢を作る」というコピーがプラスされていた。

ダットサンとオースチンが広告を牽引!

 1950年代を迎えると車種ラインアップ拡充は急ピッチで進んだ。1950年にはダットサン・デラックスセダンDB-2型やダットサントラック4146型などを発売。翌1951年にはタフなニッサンパトロール4W60型の生産を開始し、さらにデラックスセダンDB-4型や5147型トラックなどダットサン車を改良。1952年にはニッサン380型トラックを発表する。1953年にはいよいよ英国オースチン社との技術提携によるオースチンA40のノックダウン生産が開始された。

完全名戦後型、ダットサン110型登場

 1955年になると完全な戦後型というべきダットサン110型セダンと120型トラックが登場。オースチンもA50型に替わり「一本のボルトからボデーまで完全な国産」に進化した。ふたたび新聞広告が単一車種に絞り込まれたのもこの頃からだった。トラックとセダンの機能を融合したことをイラスト画像で示した「新しい時代の経済車」4人乗りのダットサン・ピックアップの広告や、「値下げ断行!!」を告げるダットサン110型の広告を新聞で頻繁に見かけるようになった。

トラックも積極的にアピール

 この頃、ニッサン580型トラック、中型トラックのニッサンジュニア・キャブオール、小型トラックのキャブライトなどの商業車が続々とデビュー。経済の本格復興期にあった日本では乗用車よりひと足早く商業車が本格ブームを迎え、モータリーゼーションの主役の座に座る。広告もこれに呼応し「登坂に強い」ニッサンジュニアや「待望の580型発売!」を告げるニッサントラック・バスが目に付くようになった。キャブライトの「50台が当る!」販売キャンペーンの展開も新聞広告がメインの訴求媒体だった。