ヒーレー スプライトMk-I 【1958,1959,1960,1961】

英国製ライトウェイトスポーツを代表する “The Frog Eyes”

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BMCの新しい小型スポーツカーの企画

 時は1950年代の中盤、英国最大の自動車企業グループであるBMC(British Motor Corporation)は、ひとつの課題を抱えていた。同グループのMGブランドがリリースするTシリーズ・ミジェットがワンクラス上のMGAに移行したため、1L級の大衆向けスポーツカーの設定が空白となってしまったのである。この状況を危惧したBMC会長のレオナード・ロード卿は、新しい大衆向けスポーツカーの企画を推進。設計および開発に当たっては、すでにオースチン・ヒーレー100(1952年デビュー)の市販化で提携の実績があるドナルド・ヒーレーに協力を仰ぎ、オースチン・ヒーレー(AUSTIN-HEALEY)のブランドで販売する計画を立てた。

 ヒーレー率いる開発チームには、ひとつの条件が課される。量産車のコンポーネントを可能な限り使い、安価で、しかも本格的な小型スポーツカーに仕立てること−−。これを達成するために、開発陣はまずオースチンのサルーンモデルであるA30/35からのパーツ流用を検討。パワートレインやフロントサスペンションなどのコンバート、さらにはセッティング変更を随時行っていく。一方、意図する性能を実現すためにボディ構造は新たに設計する方針を打ち出した。

“小妖精”のネームを冠して市場デビュー

 コードネームをAN5としたオースチン・ヒーレーの小型スポーツカーは、“小さな妖精”を意味する「スプライト(Sprite)」のネームを冠して1958年5月に発表される。ボディタイプはオープン2シーターのみの設定で、製造はアビンドンのファクトリーで実施。英国での車両価格は税込みで£678〜と、当時の1L級4ドアサルーンと同等の低価格に抑えていた。

 スプライトの基本骨格は、BMCにおける量産車で初、さらには2シーターオープン車では当時唯一のスチール材のモノコック構造を採用する。ボディサイズは全長3490×全幅1350×全高1260mmに設定。車両重量は650kgと軽量に抑えた。トップ部はオープンタイプで、クローズする際は幌骨を立ててからPVCコートファブリック製のフードおよびサイドスクリーンをセット。幌のほかにFRP製のデタッチャブルトップを用意する。後ろヒンジ式のフロントカウルはフェンダー部と一体で大きく開き、整備性を引き上げていた。サスペンションはフロントに独立懸架のダブルウィッシュボーン/コイル、リアにカンチレーバー式の1/4楕円リーフを採用。装着タイヤは5.20-13サイズの4プライで、輸出仕様またはオプションで6プライを設定する。また、操舵機構にはロック・トゥ・ロックが2.33回転とシャープなラック&ピニオン式を、制動機構には油圧式の前ツーリーディング/後リーティングトレーリングを装備した。

搭載エンジンは“BMC Aタイプ”の948cc直列4気筒OHVユニットで、燃料供給装置には2基のSU H1キャブレターを装着。圧縮比は8.3に設定し、42.5hp/5000rpmの最高出力と7.2kg・m/3300rpmの最大トルクを発生する。トランスミッションには2〜4速をシンクロメッシュ化し、ファイナルを4.22にセットした4速MTを組み合わせた。

スタイリングは愛らしくファニーな仕上がり

 エクステリアは曲線と曲面を基本に、フード上に丸目2灯式のヘッドランプを配した独特のフロントマスクを採用する。このヘッドランプ、当初は空力特性の向上を狙ってリトラクタブル式を計画していたが、フェンダーごと大きく開くフロントカウルの導入によってコクピットからの開閉コントロールができなくなり断念。次にフェンダーの左右先端にレイアウトしようとしたが、ノーズを低めにデザインしていたため、ヘッドランプ高が最大マーケットのアメリカの安全基準を満たさないことがわかった。最終的に開発チームは、トライアンフTRなどに倣ってフード上に飛び出させた形でヘッドランプを装着する。後にスプライトのアイデンティティとなるユニークなフロントマスクは、実は苦肉の策によって生み出されたデザインだった。

 インテリアは、スポーツカーらしいシンプルかつ機能的なアレンジで構成する。パネルおよびトリムは、オープン走行での耐候性に配慮してPVCコートで処理。インパネに配したメーターは、右から燃料計、速度計、回転計、油圧&水温計を並べる。スイッチ類は助手席前側にレイアウトした。リアアクスルの直前に配したシートは小ぶりなバケットタイプ。トランクリッドが未設定なため、ラゲッジからの荷物やスペアタイヤの出し入れはシートバックを倒して行う必要があった。また、オプションとしてラジオやヒーター&デミスター、ウィンドウォッシャー、合わせガラス、トノカバーなどを用意していた。

“Frog Eye”“Bug Eye”などのニックネームで大人気モデルに発展

 市場に放たれたオースチン・ヒーレー スプライトは、その個性的でスポーティなスタイリングや安価な車両価格などが好評を博し、欧州のみならずアメリカ市場でも大いに販売台数を伸ばしていく。そのヘッドランプ形状および配置から、ついたニックネームは“Frog Eye”。また、アメリカでは“Bug Eye”、日本では“カニ目”などと呼ばれて人気を集めた。

 実際にスプライトに乗ると、ライトウェイトスポーツの特性が存分に楽しめた。ドライビングポジションは低く、またシートがリアアクスル直前に位置するため、ボディサイズから想像するよりもノーズが長く感じられる。エンジンは非力ながらレスポンスがよく、4速MTの適正なギア比と相まって軽量ボディがリニアに加速していく。また、ロングストロークのAタイプエンジンは低中速域のトルクが厚く、高いギアでのイージーなドライブも許容した。クイックなギア比に設定したラック&ピニオン式ステアリングのフィールも、スポーツカーにふさわしい出来栄え。当初は“財布が軽い”若者に向けたスポーツカーは、やがてビッグスポーツの扱いに飽きた“羽振りがいい”富裕層をも惹きつけ、スポーツドライブの楽しさを再認識させる筆頭格にスプライトが位置づけられるようになる。これに呼応するように、モータースポーツのシーンでもスプライトは大活躍。1960年開催のRACラリーでは総合2位(クラス1位)に入り、ドナルド・ヒーレー自身がチューンアップしたレース仕様は1960年代半ばのビッグレースでクラスウィンを獲得する。さらに、サンデーレースを楽しむドライバーがこぞってスプライトをサーキットで走らせた。

Mk.IIでスタイリングを大きく変更

 1961年5月になると、スプリントはMk.II(AN6)に発展する(従来モデルはMk.Iと呼ばれるようになる)。そのスタイリングを見て、従来のファンは驚いた。ヒーレーのほかにMGのデザイナーであるシド・エネバーが参画したMk.IIのエクステリアは、フロントのノーズを高く設定したうえで左右フェンダーの先端にヘッドランプを装着し、さらにリア後端も高められトランクリッドを設けていたのである。従来とは別物で、しかもやや平凡になったルックスは市場で賛否両論を巻き起こした。一方、トランクリッドの採用で実用性の面では向上し、またキャブレターの変更などで最高出力が46.5hpへとアップする。また、1961年6月にはBMCお得意のバッジエンジニアリングによるスプライトMk.㈼の兄弟車、MGミジェットがデビュー。以後、スプライトはミジェットよりもやや安い車両価格に設定し、2車は並行して共存、さらに進化を図っていくこととなった。

 1962年10月になると、1098cc直列4気筒OHVエンジン(56hp)への換装やトランスミッションのシンクロ強化、フロントブレーキのディスク化などを行った進化版のMk.Ⅲ(AN7)が登場する。そして1964年春には、フロアを後端まで伸ばしてリアサスを1/2楕円リーフに改めたMk.Ⅳ(AN8)に移行。このとき、巻き上げ式のサイドウィンドウの採用やフロントウィンドシールドの曲率アップ、ロックが可能なドアハンドルの設定、インパネのデザイン刷新、エンジンの出力向上(59hp)なども実施した。

 1966年10月には、1275cc直列4気筒OHVエンジン(65hp)とダイアフラムスプリング式のクラッチを組み込んで性能を引き上げたMk.Ⅴ(AN9)がデビューする。また、このモデルでは幌骨と一体化したうえでリアセクションに格納できる新デザインのソフトトップを装備。オープン→クローズの手順が簡略化された。

小型スポーツカーの伝説となった小さな妖精

 1960年代中盤までは順調にパフォーマンスの向上を図っていったオースチン・ヒーレー スプライト。一方でBMC自体は、1966年9月にジャガーを吸収してBMH(British Motor Holdings)に、そして1968年5月にはトライアンフやローバーを傘下に置くレイランド・グループと合併してBLMC(British Leyland Motor Corporation)に発展した。

 巨大な企業グループとなったBLMCは、ブランドおよび販売車種の再検討を実施する。そのなかで小型スポーツカーに関しては、MGミジェットとトライアンフ・スピットファイア(1962年デビュー)を残し、オースチン・ヒーレー スプライトはカタログから外す決定を下した。最終的にスプライトは1971年に生産を終了。製造台数はMk.Iが4万8987台、Mk.IIが3万1665台、Mk.Ⅲが2万5905台、Mk.Ⅳが2万2790台を数える。そして最も売れた“The Frog Eyes”ことMk.Iは、その個性的なルックスとともに小型スポーツカーのレジェンドとして自動車史に名を刻むこととなったのである。