トヨタWRC2 【1983,1984,1985,1986】

グループBセリカによりサファリ3連覇の勲章

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市販車ベースのグループBセリカの誕生

 1980年代のトヨタのWRC(世界ラリー選手権)での闘いは、1983年からが実質的なスタートとなった。3代目のTA60型セリカが主役となった1983年から、WRCは改造範囲の広いグループBマシンでの闘いとなったからだ。グループBはFIA(国際自動車連盟)が1981年に決定した新車両規則で、ベース車両を最低200台生産することを条件に、エボリューションモデル(正常進化車両)の開発が出来るというもの。施行は1983年1月1日からだった。

 トヨタはグループBのベース車両として1.8リッターのDOHCターボを搭載したセリカGT-TSを開発。FISAのホモロゲーションを取得すると同時に日本国内で発売する。200台のGT-TSは瞬く間に売り切れた。20台のエボリューションモデルの製作は、ドイツ・ケルンのTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)が担当し、1983年7月に完成。こちらもFISAの車両認定を取得する。

 グループB仕様のセリカは345psもの強力なパワーを発揮する1.8リッターの4T-GT改ユニットを搭載したFRモデル。アウディがフルタイム4WDのスポーツ・クワトロ、プジョーやシトロエンがミッドシップ方式の専用設計マシンでグループBのホモロゲーションを取得したのに対し、あくまで市販車ベースだった。ちなみにトヨタはセリカGT-TSとは別に生粋のラリースペシャルを、1985年デビューを目標に別途開発していた。

過酷なサファリ・ラリーで勝利を獲得!

 グループBセリカの緒戦は、1983年夏の1000湖ラリー。しかしこの時点でマシンはまだ足回りの煮詰めが終わっていなかった。345psの出力は、当時4WDでも路面に伝えるのが難しいハイパワー。それをFRレイアウトで支えるにはサスペンションに相当の工夫が必要だったのだ。それでもチーム初加入のカンクネン選手が6位を獲得。ワルデガルド選手も12位に食い込むなど結果はまずまず。グループBセリカの高い戦闘能力を伺わせた。

 1984年シーズン、トヨタは今まで挑戦していなかった名門サファリ・ラリーにエントリーする。劣悪な道路環境のサファリ・ラリーは、スピード性能とともに、車両全体のタフさも試されるため、グループBセリカに最適と判断したからだ。この時点でエンジンパワーは360psに高まっていた。

 サファリには3台がエントリーする。ドライバーはワルデガルド選手、エクルンド選手、そして元ランチア・チームのムナーリ選手を起用した。
 ラリーは過酷だった。エクルンド選手、ムナーリ選手は比較的早い段階でリタイアしてしまう。しかしワルデガルド選手のグループBセリカは絶好調。第1レグからアウディやランチア、そして日産勢を寄せ付けることなく終止トップを快走し、見事に優勝を遂げる。サファリでの勝利がグループBセリカにとって、WRC初勝利だった。

圧倒的な強さ!サファリ3連勝

 1985年、グループBセリカは再びサファリに勝つために戻ってきた。前年の勝利が“フロック”と言われないためトヨタは必勝体制を敷く。ドライバーはワルデガルド選手とカンクネン選手の2名。この年はカンクネン選手が期待に応えて見事に優勝を決め、さらにアイボリーコースト・ラリーも制覇する。トヨタは“アフリカの王者”の地位を不動のものとした。

 1986年シーズン、トヨタはWRCにサファリ・ラリーから参戦を開始する。マシンは3台体制で、ドライバーはワルデガルド選手、トルフ選手、ベーバー選手の3名。グループBセリカは1986年も強かった。ワルデガルド選手が優勝。トヨタに3年連続のサファリ勝利をプレゼントする。さらに2位にはトルフ選手、4位にもベーバー選手が食い込み、グループBセリカの強さを世界に示した。続くアイボリーコースト・ラリーも前年に続き制覇した。

 グループBセリカの活躍は、このまま続くと思われた。しかしランチア・デルタS4を操るヘンリ・トイボネン選手のツール・ド・コルス・ラリーでの死亡により、グループBマシンは、1986年いっぱいでWRCの主役の座から降板することが決定。1987年からは、改造範囲の少ないグループAマシンで、WRCが戦われることになった。
 グループBセリカは、スプリントラリー中心のヨーロッパ・ラウンドでは、4WDやミッドシップのライバルに勝つことができなかった。しかし4年間・全8戦のアフリカ・ラウンドでは6勝を挙げ、タフさを含めた総合性能の高さを見せつけた。グループBセリカは、究極のFRマシンという称号が相応しい名車だった。