バイオレット・オープンバック 【1977,1978,1979,1980,1981】
タフな走りと大型テールゲートを備えたクーペ
日本の市場に限ったことではないが、クルマのメーカーは車種が増え、ライバル他社にも同じようなモデルが多く見られるようになると、自社のモデルだけの特別なネーミングを与えることが行われる。1979年6月に登場した日産 バイオレット・オープンバックなどはその典型で、4ドアセダンであるバイオレットのハッチバッククーペに独自のネーミングを与えたものだ。ファストバックスタイルの後部に開閉できるハッチを設けたもので、後(バック)が開く(オープン)意味を表すというわけだ。
バイオレットは、1973年1月に登場したモデルで、1.2L級のサニーと1.6L級のブルーバードUの中間を埋める車種としての位置付けを持っていた。たしかに、ライバルのトヨタはスポーティーカーのセリカをベースとしたカリーナを、三菱はギャランやランサーを、マツダはカペラを展開し、各々にしっかりとしたマーケットを築いていた。日産にはサニーをベースとしたエクセレントなどの上級モデルや、エンジン排気量では同じジャンルに属するモデルはあったが、独立したモデルとして1.4~1.8リッターのモデルは無かったのだ。初代のバイオレットは、ブルーバードUをそのまま縮小したスタイルでデビューしたが、マーケットでは大きな成功を収めるには至っていなかった。
そこで、初代のデビューから4年を経た1977年5月にフルモデルチェンジを行い、バイオレットは新型に生まれ変わった。スタイリングは直線を基調としたスタイリッシュなものとされ、ボディーバリエーションはノッチバックの4ドアセダンと前出の通り「オープンバック」と名付けられた2ドアハッチバッククーペの2種が用意されていた。1980年4月からは、より実用的な4ドアハッチバック仕様も加わる。
オープンバックは、旧型のハードトップに変わるクーペ仕様。大きく開口するリアゲートを持ち、後席を倒すと広い荷室スペースが生まれた。1970年代後半は、ライフスタイルが多様化し、若者の休日はアクティブになった。スタイリッシュなモデルにも、スキーやサーフィン、ダイビングなどの様々なレジャーグッズが積める実用性が求められた。オープンバックはその対応策。スタイリングがよく、しかも実用的なモデルだった。
ボディはフルモノコック構造で、シャシーコンポーネンツはサニー系からの流用であり、エンジンやトランスミッションをサニーの上級車種やブルーバード系から流用していた。徹底したコストダウンは、例えば足回りの構造にも及び、前輪サスペンションはマクファーソンストラット/コイルスプリングと旧型のままだが、後輪サスペンションは旧型がブルーバードSSS譲りのセミトレーリングアーム/コイルスプリングから、新型では4リンク/コイルスプリングによる固定軸へと変更された。
フロントに縦置きされて後輪を駆動するエンジンは3種あり、直列4気筒SOHCの排気量1595㏄のインジェクション仕様(出力105ps/6000rpm)を筆頭に排気量1595㏄(出力95ps/6000rpm)および排気量1397㏄(出力80ps/6000rpm)。トランスミッションは4速、5速のマニュアルと3速オートマチックで、いずれもフロアシフトとなっていた。
ちょうどこの時期は各メーカーとも販売網の拡充に力を入れていたので、日産でも各販売網専用のブランドが必要となり、同一車種のブランド違い、いわゆるバッジエンジニアリングが盛んになっていた。バイオレットは日産系列の専売車種だったが、チェリー店系列向けにオースターの名で売られ、さらにサニー店系列向けにスタンザと名を変えて販売された。バイオレットの名は、1982年6月に三世代目のリベルタとなったところでカタログからは消滅している。
バイオレットはモータースポーツ分野では、ラリーで大活躍した。初代710型、そして2代目のA11型、どちらも、世界のラリーシーンでその実力の高さを見せつけた。過酷なラリーでその強さを発揮していたことから、バイオレットは、ラリーキラーの異名を持っていた。
1979年は、サファリやモンテカルロなど12ラリーで構成されるFIA世界選手権で総合2位を獲得。そのほか、サファリラリーの連覇など輝かしい成績を残した。