名勝負/95ル・マン24時間レース 【1995】

スポーツカーレースの最高峰に挑戦したR33型GT-R

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発表会でル・マン24時間参戦を表明!

 1995年1月16日、R33型スカイラインGT-Rの発表会の席上で“ル・マン24時間レース挑戦”が明らかにされた。復活したR32型GT-Rで日本中のサーキットを席巻し無敵を誇った勇者は、新型へのスイッチとともにスポーツカーレースの最高峰であるル・マン24時間へのチャレンジを宣言したのだ。日本生まれのサラブレッドが世界に飛翔するというニュースは、GT-Rファンだけでなくすべての日本人の心を熱くした。

 6月のル・マン本戦までに残された時間は僅かしかなかった。日産はニスモ(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)を中心に精力的に動き、R33型スカイラインGT-Rをル・マンで勝てるマシンへと熟成していった。参戦マシンはル・マンのレギュレーション規定に「同一車種に4ドアが存在する車種はエントリーから除外」という項目があるため、新たに製作した「日産NISMO GT-R LM」というスペシャルモデルである。LMは大胆なエアロパーツを纏い、駆動方式は信頼性を重視してFRに変更されていた。

ル・マン仕様は最高出力600psオーバー!

 マシンの熟成を行ったのは富士スピードウェイと、仙台近郊のスポーツランドSUGO。徹底的な走り込みによって速さを磨き込むと同時に、過酷なル・マンに対応する信頼性の確保を図った。ル・マン参戦マシンの心臓は、市販モデルと共通のRB26DETT型で最高出力は600psオーバー。トップスピードは悠々と300km/hを超え超高速時の空力安定性も抜群だった。トランスミッションはシーケンシャル式6速、サスペンションは前後ともにダブルウィッシュボーン式である。

 GT-Rのル・マン挑戦は、新たなレース応援システムも産みだした。「クラブ・ル・マン」である。GT-Rを応援するマニアが集うファン組織で、クラブ員にはマシンの開発状況を逐次報告。チームと一体となりともに戦う臨場感が味わえるように工夫されていた。会員数は8000名にも達し、ル・マン出発前に赤坂プリンスホテルで開催した壮行会(会費3000円)はクラブ員が主役を担った。クラブ員のうち抽選で選ばれた10名は実際にル・マンに出掛け、チームスタッフとして様々な業務をこなした。

ドライバーは日本人6名、2台体制でゴールを目指す

 ル・マンには2台のGT-Rが挑戦した。監督はR35型日産GT-Rの開発者としても知られる水野和敏氏で、22号車は「keep The Dream Alive」をスポンサー名としたボランティアグループのサポートを受け、ドライバーは福山英朗選手、近藤真彦選手、粕谷俊二選手の3名がステアリングを握る。22号車は完走をターゲットに24時間を闘う。もう1台の23号車は「クラリオン」のメインスポンサーを受け、ドライバーは星野一義選手、鈴木利男選手、影山正彦選手の3名。23号車は上位入賞を目指すエースマシンだ。

 6月17日、フランスのサルテ・サーキットで行われた第63回のル・マン24時間レースは雨の激闘となった。決勝スタート直後から大粒の雨が降り出し、やがて霧雨になるもののなかなか上がらず、結局全24時間中16時間に渡って雨が降り続く展開となった。
 R33型スカイラインGT-Rは、初出場ながら23号車がGT1クラス中日本車最上位の予選27番手、22号車が35番手からスタートを切った。GT-Rは雨による視界悪化に加え、水とオイルと泥だらけの劣悪な路面状況にもかかわらず順調に周回。続発する他車のアクシデントもあってスタート後8時間目では23号車が5番手、22号車もトップ10に入る健闘を見せる。
 ところが好調だった23号車に突然のミッショントラブルが襲いピットイン。僅か46分でミッションを交換し再びコースへと送り出すものの順位を大幅に下げた。その後23号車は目を瞠るほどの速さで着実に順位を戻す。だが明け方の午前6時25分、星野選手のドライビング中にミッショントラブルが再発。今度はピットに戻ることが出来ず無念のリタイアとなった。

 一方22号車は10番手前後で安定して走行。3名のドライバーは悪条件の中でもペースを守り周回を続けた。そして午後4時、念願のチェッカーフラッグが降られ無事にゴールを果たしたのだ。スタートした48台中、完走は僅か20台という厳しい状況のなか、22号車は日本人ドライバーの手で見事に24時間を走り切ったのである。優勝はダルマス/レート/関谷正徳選手組みのマクラーレンF1。GT-Rの22号車は総合10位、GT1クラス5位を得た。24時間の平均速度は153.995km/h、総走行距離は3695.879kmだった。