クラウン デラックス 【1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962】

日本を代表する高級サルーンの誕生



初めてトヨペットの名を冠した小型車SA型から8年。
トヨタは高級セダン、トヨペット クラウンRS型を発売する。
トヨタの総力を傾け、
3年の歳月を費やして生まれた新型サルーンは、
当時の先端技術を存分に注入。
国産車の基準を大きく引き上げた名車は、
以来、高級車の代名詞となる。
国産ハイオーナーカーの夜明け

 1955年1月、「トヨペット クラウン(RS型)」が発表された。全てが国産の技術で造られたこのクルマは、当時盛んに議論されていた「輸入車か?国産車か?」と言う議論に結論を与えたものだった。そのころ、「乗用車は輸入車でまかなえば良い」と言った国産車不要論が、政府高官の間でも声高に言われていたほどだったのだ。「トヨペット クラウン(RS型)」の登場は、そんな議論を一気に吹き飛ばし、世論を「国産車も捨てたものではない」と言う方向に転換する大きなポイントとなったのである。

 大東亜戦争と呼ばれた、アジア地域全体を巻き込んだ長い戦争が日本の敗戦で終結し、日本はアメリカ軍を主体としたGHQ(占領軍総司令部=General Headquarters)の占領統治を受ける。それは、1945年から1952年まで7年間に及んだ。その間、自動車の生産はほとんど許可されなかった。そんな中で、地道な研究開発を行っていたトヨタは、1947年には1000cc級の小型乗用車「トヨペットSA」を発表した。それは、占領統治が終わる1952年までに215台が造られただけだったが、「純国産技術で乗用車の生産を……」と言うトヨタの強い意志をより明確にする大きな力となった。ちなみに、「トヨペット」の名は、一般から公募されて決まったもので、トヨタのペットと言う意味を持っていた。

革新的な技術を投入した意欲作

 日本の乗用車市場が、タクシー向けが大半であった1950年代になり、来るべき自家用車時代を予測してトヨタは本格的な自家用車向けのモデルの開発を開始する。そして1955年に発表されたのが「トヨペット クラウン(RS型)」と言うわけだ。それは、それまでタクシー向けに造られていた「トヨペット スーパー(RH型)」をベースとしたものだったが、強固な梯子型フレームはそのままに、フロントサスペンションは「ニー・アクション」(人間の膝関節と似た動きをすることからこの名がある)と呼ばれた、ダブルウィッシュボーンとコイルスプリングの組み合わせとなり、リアサスペンションも固定軸と柔らかな3枚リーフスプリングの組み合わせとなっていた。また、クラッチは油圧作動とされている。スタイリングは、当時の一般的なアメリカ車、たとえばオールズモビルやポンティアックをそのまま縮小したようなものだったが、フロントグリルの造形などには日本的な繊細さが見て取れる。

左右のドアは観音開きとなり、特に後席への乗り降りが容易な様に考えられていた。この辺りも自家用として使われることを前提にしたものだったろう。室内はボディ幅が拡げられたことから、このクラスの乗用車としては水準以上の広さがあり、コラム・シフトの採用で前後席がベンチシートとなって、6名乗車を可能としていた。フロントウィンドウは、初期型の「クラウンRS」では、左右2分割の形になっているが、かなりきつい曲率を持ったガラスが技術的にできなかったからである。ほぼ1年後に発売される「クラウン・デラックス(RSD型)」では、一枚ガラスとなった。ガラスの製造技術も進歩したのだ。

進歩的な足回りで高い快適性を実現

 エンジンやトランスミッションなどは、タクシー用のRH型からのキャリーオーバーであり、最高時速は100km/hとなっていた。これでも当時は「高速車」だったのである。当時、日本全国の道路舗装率が30%程度であり、一級国道でさえ「そろばん道路」と言われたでこぼこ道や砂利道ばかりだったのだから、時速100km/hで走れる道路などほとんどなかったのだ。そんな劣悪な道路環境の中で、前後サスペンションがトラック並みの硬いリーフスプリングだったタクシー用車から比べれば、「クラウン」の乗り心地は決して悪くはなかった。その頃の自動車雑誌がインプレッションで、「雲の上を走っている様だ」と評していたのは、いささかオーバーであったが。

 ボディの工作精度も輸入車に引けはとらず、性能的にもほぼ互角のレベルにあったのだから、「クラウン」の登場により、国産車の評価が一気に高まったのは当然である。国産初の本格的な自家用車として、「トヨペット クラウン」の名が定着するのに長い時間を必要としなかった。後に「何時かはクラウンに……」と言う有名な宣伝コピーの生まれる素地は初代ですでに出来上がっていたのである。

自家用車としてのコンセプト

 トヨタは、「クラウン」がタクシーに使われることを嫌った。それは、あくまで「クラウン」を自家用車向けモデルとして育てたいと考えていたからである。また、暴力的な運転から、「カミカゼ・タクシー」などと揶揄されていた当時のタクシーとして酷使されるようには設計されていなかったこともある。事実、「クラウン」に乗るとクルマ酔いを起こすと言う人も多かったのだ。そこで、「クラウン」のタクシー向けモデルとして、「トヨペット マスター」と言うモデルが造られた。サイズは「クラウン」と同じで、足回りをタクシーとしての酷使に備え、前後ともリーフスプリングによる固定軸としたものだ。

デザイナーの菅原留意氏の手になるスタイリングは、クラウンよりも良い(?)ほどであった。タクシー向けのモデルを別に造ってまで、トヨタは「トヨペット クラウン」の自家用車としてのポジションを明確にしたのである。また、トヨタは、欧米のメーカーとの技術提携をせず、純国産技術での開発にこだわり続けた。それは、トヨタの意地とでも言えるものだった。

RSD型デラックスのデビュー

 初代「トヨペット クラウン(RS型)」のデビューから11カ月後の1955年12月、「トヨペット クラウン・デラックス(RSD型)」が登場した。前述のように、フロントウィンドウは一枚ガラスとなり、エクステリアにはメッキの装飾が加えられ、ラジオやヒーター、電気式時計、着色ガラス、ホワイト・サイド・タイヤ、フォグライト、ギアをリバースに入れると点灯するバックアップライトなどを標準装備としていた。エンジンも排気量はそのままだったが逐次パワーアップされ、1958年型では58ps/4400rpmへと向上している。

RSD型のクラウン・デラックスは、その耐久性を実証するために、1956年に朝日新聞社の主催によるロンドン〜東京5万キロ・ドライブや翌1957年の豪州一周モービルガス・ラリーへの出場などを果たし、知名度の向上とタフネスさを広く喧伝した。また、政府内部でも、公用車に国産車を使うことが通達されるまでになる。数年前まで言われていた「国産乗用車不要論」がまるでウソのような様変わりである。初期型「トヨペット クラウン」は、1960年のRS31系のモデルまで受け継がれる。日本のクルマ社会に、はっきりとした世界が出来上がりつつあった。

COLUMN
飛躍的な伸びを見せた初代クラウンの生産台数
1955年の1月5日デビューとなったクラウン。クラウンの1955年度の生産台数は2752台にすぎなかったが、翌年度には9250台まで台数を増やしている。1957年度は1万6435台。マイナーチェンジを受けたRS20系が登場した1958年度も1万5489台と1万台なかばをキープ。その後、1959年度には2万台をゆうに超える2万6967台、モデル末期となった1961年度には3万5772台のクラウンが生産された。クラウン登場の同年同月の1955年1月17日、日産からはオースチンA50ケンブリッジサルーンが発売されていた。クラウンはこのクラスで絶大なシェアを誇り、1956年には、クラウン史上最高のシェア68.8%をマークしたのだ。