レオーネ・エステートバン4WD 【1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978】
乗用4WDの素晴らしさを伝えたエポックモデル
初代レオーネに1972年に加わった商用車のエステートバンは、水平対向ボクサーエンジンとともにSUBARU(スバル)のコア技術である“4WDシステム”を初採用したエポックモデルである。エステートバン4WDは1972年9月に登場した。
4WD仕様は通常のFF仕様のトランスミッションの後部にドライブシャフトを接続し後輪用の駆動力を取り出す方式で、エンジン縦置きのスバル流FFのメリットを生かしたものだった。エステートバン4WDは悪路での走破性向上を考慮して最低地上高を210mmに高め、バンパーにオーバーライダーを備えていたが、基本的にボディはFF仕様と共通。荷室フロアは完全にフラットだった。ちなみに4WD仕様に用いたドライブシャフトと後輪用デフはスバル製ではない。当時提携関係にあった日産のブルーバード(510)用だった。前輪の最終減速比3.889に対し、ブルーバード用を用いた後輪最終減速比は3.900と微妙に違うが、この程度の差は許容範囲と言われた。ちなみに4WDシステムはFF→4WDのセレクティブ方式で、走行中でも切り替えが可能。トランスミッションは4速マニュアルである。
4WDと言えばヘビーデューティなJeepタイプが一般的だった時代に、乗用車の快適性と走り、そしてライトバンの多用途性をもったレオーネ・エステートバン4WDは画期的な存在だった。発表当初こそ月販100台程度だったが、その圧倒的な悪路や雪道での走破性と、高いユーティリティでしだいに信頼を集めスバルの主力車へと発展していく。ちなみにアウディがクワトロ・システムを用いた4WDを実用化するのは1980年代に入ってから。1972年にいち早く4WDの優位性に着目したスバルの先見性は見事だった。
スバルの4WDは意外なところから開発がスタートしている。きっかけは東北電力から宮城スバルに持ち込まれた「送電線保守作業用にスバル1000ライトバンを4WD化できないか」という相談だった。東北電力では当時Jeepタイプの4WD車を保守点検用に使用していたが、車体が大きく重く、ドライビングに慣れを必要とすることから新たな4WD車を求めていた。相談を受けた宮城スバルは、鋭意開発に取り組み10ヶ月後に4WDの改造車を完成させ雪道などで走行実験を行う。その走りの実力は驚くべきものだった。
Jeepタイプ車と事実上変わらない逞しさを示し、しかも通常走行時の快適性もハイレベルだったのだ。さっそく宮城スバルは東北電力に納車すると同時にスバルの富士重工本社に改造した4WDバンを持ち込んだ。本社も4WDの優秀性を認め1971年には技術本部内に専門の4WD開発チームを発足させる。本格的な4WD開発のスタートである。ちなみに1971年の東京モーターショーに展示された1300Gバン改造4WDは、宮城スバルのアイデアをベースに技術本部がリファインを加えたものだった。
レオーネ・エステートバンは通常のFFモデルは1088cc(62ps/6000rpm)と、1361cc(80ps/6400rpm)の2種のパワーユニットが選べたが、4WDモデルは1361cc仕様のみ。4WD化にあたって車重が55kgほど重くなっていたため1088ccでは非力と判断されたのだ。ちなみに4WDのトップスピードは140km/h。FF仕様の155km/hに対してやや差が付いた。これは4WDのギア比を低めに設定していたことの結果だった。4WDは高速巡航性能以上に、悪路でのねばり強さを重視していたのだ。タイヤは全天候型のラジアルタイヤ(155SR13)を採用していた。
装備は商用車だけにシンプルだった。前席にリクライニング機能を備えていたものの、シートはビニールレザー張り。メーターはタコメーター未装備の2連仕様。時計もオプション設定だった。とはいえ、Jeepタイプの4WD車と比較すると、ベース車が乗用車のレオーネだったから、快適性はハイレベル。なにより足回りが違った。レオーネのサスペンションは前がストラット式、リアがセミトレーリング式の4輪独立仕様。一般的なJeepタイプ車の、スパルタンな4輪リーフ・リジッド式に対し、乗り心地でも操縦安定性でも圧倒的なアドバンテージを持っていた。悪路ではショックを巧みに吸収し、高速走行時の安定性はハイレベル。しかも最低値上高を210mmと高めに設定したこともあり、悪路走破性は驚くべきレベルだった。
現在の水準で評価すると、レオーネ4WDの走りは相当に骨っぽい。ステアリング操舵力は重く、駆動系のギアノイズは大きめ。エンジンパワーもミニマムだった。しかし当時はそれでも4WD車としては文化的であり、画期的だった。元々レオーネは、走行性能に優れたクルマだったが、悪条件で頼りになるクルマに仕上がっていた。たとえば雪道で、FF状態ではスリップして走れなくなっても、4WDにセレクトすると逞しく路面をグリップ。力強く走れた。
レオーネ・エステートバン4WDは、発売当初は限られたビジネスユース向けとメーカー自身も考えていた。しかし、デビューすると予想以上の反響を呼ぶ。1970年代前半は、市街地こそほぼ100%舗装されていたが、地方に一歩出ると、まだまだラフロードが多く存在した。また冬期に雪が積もる地方では、除雪が行き届かない路面も多く、スリップ対策はチェーンが一般的だった。潜在的に悪路と雪道に強いクルマを求めるユーザーは多かったのだ。レオーネ4WDは、まさに“待たれていた”クルマだった。
優れた走りの性能は、しだいに信頼を生み、販売台数が増加する。メーカーもそれに応じラインアップを強化した。
1975年1月には、世界初の量産4WD乗用車、セダン4WDを追加。セダンは、シックな4灯式ヘッドライトを採用。各部は豪華に仕上げられていた。タコメーターと時計が標準装備され、前席はシースルータイプのハイバック形状、前輪にはディスクブレーキを装備していた。
パワーユニットは1361ccの水平対向4気筒OHV。排出ガス低策が施された77ps/6400rpm、10.5kg・m/3600rpmのスペックはエステートバンと共通。4速トランスミッションやFFと4WD切り替え式のセレクティブ4WDシステムも変わらなかった。最低地上高こそ195mmと、エステートバンと比較してやや低くなっていたが、セダンは定評の圧倒的な走破力を、落ち着いたセダンボディで味わえる存在。乗用車登録なので、車検有効期間が2年(商用車のエステートバンは1年)と長いことも、ユーザーの幅を広げた。ちなみセダンのトップスピードは145km/h。エステートバンより5km/h速いデータが公表された。最高速の違いはセダンが通常のラジアルタイヤ、エステートバンは全天候型ラジアルを装着していたためと考えられる。セダンのタイヤのほうが走行抵抗が少ないため、トップスピードが伸びたのだ。
レオーネ4WDの快進撃は続いた。1977年4月のシリーズ全体のマイナーチェンジで、ラインアップを一段と増強。セダン、エステートバンとも魅力が一段と高まった。改良の注目点はエンジン排気量の拡大。全車1595ccの水平対向4気筒ユニットを搭載する。排気量アップは、昭和53年度排出ガス規制に適応させる目的もあったが、走りのポテンシャルアップの意味合いも強かった。
パワースペックはセダンが82ps/5600rpm、12.0kgm/3600rpm、エステートバンは、87ps/5600rpm、12.3kgm/3800rpm。排出ガス規制の違いでエステートバンのほうがややパワフルだった。ちなみに前輪ブレーキは全車ディスク式に統一された。
エステートバンは、2グレード構成に進化。従来モデルと同等装備のLに加え、装備が充実したワゴン指向のLGを新設定する。LGは、衝撃吸収バンパー、サイドプロテクトモール、ファブリックシート、フロア&荷室マット、タコメーター付き3連メーター、ソフトグリップ4本スポークステアリング、間けつワイパーを標準装備。タイヤが全天候型になる以外、セダンと同等の快適アイテムを満載する。
カタログでは「レオーネ4WDは、米国製など見られた作業車スタイルが全盛の、オフロード専用車ではありません。一般的なクルマの走行限界をもう少し高め、より安全に、より速く、より快適に走行できることをねらって開発したクルマです」と、その優秀性をアピール。レオーネ4WDは、従来までは“特殊なクルマ”と捉えられていたが、この頃になると走りに優れたクルマとして広く認知されるようになる。
メーカーは、レオーネ4WDの優れたパフォーマンスを積極的に説明した。具体的にアピールしたのは「高速走行」、「水中走行」、「砂地走行」、「雪道走行」、「急坂走行」の5点。
高速走行では「車高が高いFRベースの4WDは、高速走行が苦手ですが、前輪荷重の重いFF方式でこなすレオーネ4WDは安定した走りを見せます」と説明。水中走行は「FFで走行した場合、水深20cmが限界でステアリング操作の自由が利きませんが、レオーネ4WDは、4WDにセレクトしギアをローを選べば水深40cnまで走破でき、ステアリング操作も自在に一気に走りきれます」とアピールした。
同様に砂地走行では「35cnの深さから自力で脱出」、雪道走行は「40cmの新雪に埋もれてもスムーズに発進」、急坂走行は「立っているのも難しい約30度の草地の土手をラクラク走破」と実際のテスト結果を報告。卓越した走破性をカタログで誇らしげに語りかけた。
レオーネ4WDは、スバルならではの高い技術力で“クルマがもたらす自由”をぐっと広げた存在。その高い実力は日本だけでなく、世界で評価され、スバルがワールドブランドとなるきっかけを作った。