ミニ・クーパーS 【1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971】

自動車史に燦然と輝く傑作FFスポーツ

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スエズ動乱がもたらした開発指令

 小さいことや可愛らしいことをひと言で表すフレーズとして使われている「ミニ(Mini)」は、1959年8月に英国で発表された1000cc級の小型車の名前に始まるというのが定説になっている。そのミニは、デビュー当初から大きな可能性を秘めており、小型で安価なファミリーカーとしては異例な種類の派生モデルが造られた。1961年に現れたスポーツモデルの「ミニ・クーパー」、そのパワーアップ仕様として1963年に登場し、1964年に1275cc仕様に発展した「ミニ・クーパーS」などは大きな成功を収めた派生モデルの典型的な存在であった。

 形式名を“ADO15”とするミニは、ある日突然に生まれたわけではない。1956年10月にイスラエルとエジプトのあいだで、スエズ運河の領有権を巡って起きたスエズ動乱は、戦場から遠く離れた英国のエネルギー事情に深刻な影響をもたらした。自動車用ガソリンの欠乏が始まったのだ。エンジン排気量の大きなモデルへの影響は甚大で、自動車メーカーは燃費のよい小型車へ目を向けなければならなくなった。当時、英国最大の自動車メーカーであったBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)の総帥であったサー・レオナード・ロードは、BMCのデザインセンターであったADO(オースチン・デザイン・オフィス)の主任デザイナー、アレック・イシゴニスに全く新しい経済的な小型車の設計を命じた。その条件は、「可能な限り既存の量産車のコンポーネンツを使って、生産コストを引き下げること。さらに、大人4名が乗れて、燃費は1リッター当たり20km以上であること」だった。厳しい条件に対して、イシゴニスは敢然と挑戦し、そして完全な勝利をあげることとなる。

小型車の革命児、ミニの誕生

 1959年にADO15のコードネーム(ADOの15番目の設計車両であることを示す)で発表されたミニ(オースチン・セブン/モーリス・ミニマイナー)は大反響を呼び、商業的にも大きな成功を収めた。
 ミニは東西型横置きエンジンによる前輪駆動方式、ラバーコーンを使った前後独立式サスペンション、全長3.0m/全幅1.4m/全高1.35mのコンパクトなスペースのなかに大人4名が座れるスペースを確保したこと等々、後の小型車設計に決定的な影響を与えたともいえる様々な新機軸が盛り込まれていた。まさに小型車の革命児だった。ミニを参考にして誕生したモデルとして、1967年3月に発売された日本のホンダN360と1972年7月発売のホンダ・シビック、フランスでは1965年にデビューしたプジョー204などが知られている。

クーパーによる“速いミニ”の製作

 ミニはデビュー当初から、剽悍な走りの性能から、モータースポーツ向きのベースマシンとしてのポテンシャルに注目が集まっていた。エンジンをパワーアップし、サスペンションを強化するなど簡単なチューンアップを施せば、そのままラリーやレースに使えるものだったからである。それは、設計者のアレック・イシゴニスがモータースポーツに深い関心と理解を示し、1937年には自らの設計によるレーシングマシンであるライトウェイト・スペシャルを造り上げていたことが影響していた。ミニは走りの性能を削ったミニマムカーではなく、無限の可能性を秘めた小型車だった。

 ミニのレーシングマシンとしての潜在能力に注目した技術者のひとりが、ジョン・ニュートン・クーパーである。ロンドン近郊のサービトンでチューンアップショップの「クーパー・カーズ」を切り盛りしていたジョン・クーパーは、イシゴニスの良き友人であり、レースにも自ら出場するほどのマニアだった。しかもジョン・クーパーはミニがデビューした1950年代末には、F1やスポーツカー・レースの著名なコンストラクターであり、英国はもとより、ヨーロッパでのF1やF2、長距離耐久レースでおびただしい勝利を獲得していた。ミニは、ジョンにとっても得難いレーシングマシンの素材となったのである。

世界で153の勝利を挙げたミニ・クーパー!

 ミニの販売拡大を意図したBMCは、クーパーにミニをベースとしたスポーツモデルの開発を正式に依頼する。こうしてミニのスポーツモデルが開発されることとなった。クーパーはまず、エンジン排気量をオリジナルの848ccから997ccへと拡大し、吸・排気バルブを大型化し、電気系統を改良するなどのチューンアップを施す。そして1961年8月になって、「ミニ・クーパー」の名で発表された。クーパーが開発したチューンアップのノウハウはBMCに引き渡され、正式な量産車として生産されることになる。価格は£679と安価だったから、デビューするや爆発的な人気を集め、ミニ・クーパーは1962年度中に世界中のラリーやレースで153もの勝利を獲得した。

最強版となる「クーパーS」の登場

 ADOのシリアルナンバーでは“ADO50”となるミニ・クーパーは、BMCが計画していたFIA規定のグループ2に属し、その生産台数条件を満たすためのモデルであった。年間生産台数1000台を達成して、ミニ・クーパーは世界各地のレースやラリーに出場するようになる。最高の成績は1964年開催のモンテカルロ・ラリーでホプカ―ク/リドン選手のチームが総合優勝したことである。

 エンジンのさらなるパワーアップのため、排気量1071ccを経て1964年3月には1275ccにまで拡大され、クーパーは「クーパーS」に発展する。1275ccエンジンは圧縮比を9.5へ高め、バルブスプリングを強化、SUキャブレターを2基装備して、吸・排気マニフォールドを変更するなどで、最高出力を75ps/5800rpm、最大トルクを10.92kg・m/3000rpmへと高めた。ボディサイズは変わらず、車重は軽量だったから、最高速度は160km/hに達し、1.6lリッタークラスのスポーツモデルを凌ぐ目覚ましい性能を示した。オリジナルのミニマイナー(1959年)が848ccの排気量と34ps/5500rpmの最高出力、6.08kg・m/2900rpmの最大トルクだったのだから、その高性能ぶりに皆が驚いたのも当然である。

 エンジンの高性能化に対処して、フロントブレーキはダンロップ社製サーボ機構付きディスクに改められ、10インチサイズのタイヤもダンロップSPラジアルタイヤが標準装備となっている。クーパーSは1965年と1967年のモンテカルロ・ラリーで優勝した。1966年にもトップでゴールインしたが、ゴール後に補助ランプの設計ミスによりレギュレーション違反を問われて失格となってしまった。

 クーパーとクーパーSの活躍により、日本では「ミニ」も「ミニ・クーパー」も一緒のイメージで捉えられるようになり、「ミニ・クーパー」が「ミニ(ADO15)」の全てを言い表すまでになってしまう。しかし、実際のクーパーとクーパーSは、標準型のミニとは全く異なる種類の高性能スポーツカーとなっていたのだ。
 1971年のクーパーSの生産中止までに、クーパーは初期型のMkⅠと、改良版MkⅡあわせて8万920台、クーパーSは2万7206台が生産されている。