コルト1000 【1963,1964,1965,1966】

1L級本格大衆車の先駆モデル

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新しい小型乗用車の企画

 三菱500からコルト600へと、大衆車市場で着々とネームバリューを高めていった1960年代初頭の新三菱重工(自動車開発部門の拠点は名古屋製作所)。同社は来るべき1960年代中盤に向けて、コルト600のワンクラス上をいく上級車を企画する。背景には、当時の政府が推進した所得倍増計画による国民1人当たりの収入増加、さらに高速を含めた道路網の急速な発展があった。国民の所得が増え、しかも道路網が整備されれば、ユーザーはより上級なクルマを求めるようになるに違いない--。そうした判断から、三菱重工は新しい上級小型車の開発を推し進めたのである。
 開発陣は第一にスタイリングを重視する。基本デザインに関しては、同時期に開発を進めていたフラッグシップモデルのデボネアと共にハンス・S・ブレツナーに協力を仰ぎ、当時の最新流行だったフラットデッキタイプの4ドアセダンボディを仕上げる。ローストレートのルーフラインに大型のグリル、抑揚のあるリアサイド、大型のフラッシャーランプなどを配した造形は「上品でスタイリッシュな外観」と評価された。またボディ長に対してホイールベースを長くとり、広い室内スペースを確保したことも特徴だった。

三菱初の4ドアセダンの登場

 開発陣は搭載エンジンについても大いに力を入れる。冷却機構には同社初の水冷式を導入。ボア72.0mm×ストローク60.0mmのオーバースクエアな977cc直列4気筒は、プッシュロッドのOHVながらシリンダーブロック最上部にカムシャフトが位置する高効率レイアウトを採用した。また燃焼室にはウエッジ型を取り入れ、燃料効率を高めるようにアレンジする。完成したエンジンはKE43の型式が付けられ、最高出力は51ps/6000rpm、最大トルクは7.3kg・m/3800rpmを絞り出した。

トップスピード125km/hをマーク

 三菱製量産車初の本格的な4ドアセダンは、1963年7月に“コルト1000”の名で市場デビューを果たす。グレード展開は上級版のデラックスとベーシック仕様のスタンダードを設定。デラックスはメッキモールディングやホワイトリボンタイヤといった見栄えのいい装備を標準で組み込んでいた。
 コルト1000は52.2ps/Lという世界トップレベルのスペックや125km/hの最高速度、そしてワンクラス上に匹敵する広い室内空間などが好評を博し、たちまち大衆車市場のベンチマークに位置づけられる。この勢いを維持しようと、三菱はコルト1000の車種強化を実施。1964年9月には既存のMTのほかにAT仕様を追加し、翌65年4月にはリーズナブルながら充実装備のDXポピュレールを設定した。

ライバルに対抗して排気量アップ

 コルト1000の車種強化が実施されるなか、ライバルメーカーからも1L級の新しい大衆車が相次いでデビューする。1965年には、5月にダイハツ工業がベルリーナ1000、11月に東洋工業がファミリア・クーペ1000をリリース。1966年に入ると、4月に日産自動車がダットサン・サニー1000、5月に富士重工がスバル1000を発表した。
 この状況に対し、三菱はコルト1000の排気量拡大を行い、1966年9月にKE44型1088cc直4OHVエンジン(58ps/8.2kg・m)を積んだコルト1100を発売する。この1カ月後、トヨタ自工から“+100ccの余裕”というキャッチフレーズを冠したカローラ1100がデビューするわけだが、実は三菱コルトのほうが早く+100ccに仕立てていたのである。

 地道な改良を実施して、クルマとしての魅力度を引き上げていったコルト・シリーズ。しかし、エンジニアリング優先の開発体制は当時の市場では“地味”と捉えられ、その結果、販売成績でカローラやサニーに大差をつけられる。信頼性と実用性で勝負したコルト・シリーズが脱皮を遂げるのは、1969年10月に発表される後継車の“コルト・ギャラン”の登場まで待たなければならなかった。