コロナ(輸出仕様) 【1965,1966,1967,1968,1969,1970】

度重なる失敗を克服した実力モデル

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初代クラウンから始まったアメリカ進出

 トヨタにとってアメリカ市場は、現在でこそ日本以上の販売台数を誇るメインマーケットとなっているが、進出当初は失敗の連続だった。ようやく輸出が軌道に乗ったのは1965年4月に投入したRT43L型コロナからである。

 トヨタ車のアメリカ輸出は1957年8月25日、輸出のサンプルモデルとしてクラウン2台を横浜港から船積みで送ったことに始まる。1957年10月にはカリフォルニアに「トヨタ・モーターセールスUSA」を設立し、翌1958年7月から正式な営業を開始する。当初の販売モデルは初代クラウンだった。クラウンは1958年のロサンジェルス輸入車ショーに出品し、同時に積極的な広告・宣伝活動をスタートさせる。滑り出しは順調だった。8月4日付けの自動車業界紙「Automotive News」では“大型車の乗り心地と小型車の経済性を備えたクルマ」と評価され、各方面から注目を集めたのだ。しかしほどなく商品上の欠点が明確になる。

 クラウンは日本で使用する分にはタフでしかも快適なサルーンだった。しかしフリーウェイが縦横に張り巡らされたアメリカでは明らかに実力不足だったのである。高速走行時のパワー不足と、静粛性の欠如、エンジンの耐久性不良、プアーな高速安定性などが次々に指摘されたのだ。設計陣は懸命にリファインに取り組んだが、設計段階まで遡らないと改良できない部位が多く、結局トヨタはクラウンの対米輸出を諦める。

度重なる失敗とその教訓

 次ぎにアメリカに上陸したのがコロナ(RT20L型)だった。当初からアメリカ輸出を念頭に各部をタフに仕上げた専用モデルで、ネーミングも“ティアラ”と日本とは違う名前を名乗った。しかし1960年6月に販売を開始したティアラも万全ではなかった。クラウンと比較すると各部は改良されていたものの、高速時のパワー不足、85km/h附近で発生する振動&コモリ音、足回りの弱さ、ブレーキ耐久力の不良などが指摘されたのだ。販売が低迷したのはもちろん、ティアラの失敗はディーラーの離反も招いた。

 度重なる失敗によりトヨタは重大な決断を下す。アメリカ市場への乗用車輸出の一時中止である。幸いランドクルーザーが好評だったため、輸出適格モデルが完成するまでアメリカでの販売はランドクルーザーに絞り込むことにしたのだ。日本では問題のない品質でも、アメリカで通用しない現実は、トヨタ技術者に強いチャレンジ精神を与えた。

逞しい走りと快適性で見事に復帰

 ようやくトヨタが乗用車輸出に復帰したのは1965年4月。導入モデルは通称“アローライン”の3代目コロナだった。型式名RT43L型のコロナは徹底的にアメリカ市場を研究した専用モデルだった。エンジンは日本では設定のないパワフルな1.9リッターで、ラジオやヒーターなどの快適装備もすべて標準装備。マニュアルミッションの他にATも選ぶことができ、価格は東部・西部地区ともに統一価格の1860ドルとリーズナブルだった。パフォーマンス&耐久性ともに改良され、快適性もハイレベルなコロナは、積極的な広告展開の後押しもあって、順調に販売を伸ばした。とくにAT車の設定は光った。当時輸入小型車でAT車が選べたのはコロナだけだったのである。コロナのAT車販売比率は導入時の1965年こそ12%だったが、翌年には50%となり、以後はAT車が主流となる。

トヨタを代表する、人気モデルに成長

 コロナの投入によりアメリカでのトヨタ車の販売台数は右肩上がりとなった。1964年の3800台から1965年には1万1200台に増加、1966年には2万6800台、1967年4万700台と急増し、ついにアメリカがトヨタ最大の輸出先になったのだ。
 好調な販売はモデルのリファインも後押しした。コロナはセダンに加え、スタイリッシュな2ドアハードトップを加え、リクライニングシートやクーラーなどの快適装備を充実していく。年ごとに洗練さを増し走りも逞しくすることで、ユーザーの信頼を一段と高いものとしたのである。