洗車機の歴史01 【1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972】

「クルマを洗う機械」の登場



“洗車先進国”への視察

 日本でようやく自動車の普及が進み始めた1962年、米国と欧州を視察中だった竹内鉄工株式会社の社長、竹内茂夫から一通の手紙が届く。
「アメリカで洗車機を1台買った。船便で送ったから、着いたらすぐにテストしてほしい」。
 当時の竹内鉄工(後のビューテー)は、自社ブランドの核となる製品を探していた。そのために社長の茂夫は欧米の先端工業の視察ツアーに参加したわけだが、その際に米国で見つけた“クルマを洗う機械”に大いに魅了される。
 茂夫が洗車機に注目したのには、それなりの理由があった。竹内鉄工が社屋を構える名古屋市港区木場町の周辺の道路は未舗装。雨などが降れば一週間はぬかるんだ状態が続いた。泥んこの道路を、竹内鉄工の資材運搬車が走る。当然、クルマは汚れに汚れた。社員は雨が降れば春夏秋冬、ホースを片手に洗車に追われる。やがて、一日の作業の終わりは“クルマの洗車”が日課になっていた。

 そんな折、米国でクルマを洗う機械があるという話を茂夫は聞きつける。「これを何とかわが社に導入して、社員を洗車という煩わしい作業から解放したい。それに今後、日本でクルマが普及すれば、洗車機の需要は伸びる可能性がある」。社員の苦労の解消と自社の核となる製品の設定−−2つの目的を果たすために、茂夫はアメリカで洗車機を探したのだ。

 米国視察ツアーの自由行動の日、茂夫は洗車機メーカーの「カリフォルニア・カー・ウオッシュ社」の門を叩く。対応したのは社長のデビッド・フィッシャーだった。茂夫は熱心に洗車機に対する興味、できれば日本で洗車機の販売も手掛けたいという旨の話をする。じっくりと聞いていたフィッシャーは、ひとつの提案をした。「国土の狭い日本では、大型のコンベア式よりも小型の移動式洗車機のほうがいい。それなら値段も安い」。日本の事情、そして茂夫の懐具合を考えたフィッシャーの英断だった。

 茂夫は何とか現金をかき集め、再度フィッシャーのもとを訪れて移動式スプレー洗車機を1台購入する。竹内鉄工、後のビューテー社が洗車機を手にする最初の瞬間だった。ちなみにフィッシャーは、後に自社の洗車機の日本での販売権を、無償で竹内鉄工に渡している。当時の茂夫の洗車機に対する熱心さが、フィッシャーに伝わったがゆえの行動だった。

モータリゼーションの波に乗って−−

 名古屋についた移動式スプレー洗車機は、早速竹内鉄工に運び込まれる。組み立てが終わり、試運転が始まる。機械を潜り抜けてきたクルマを見て、茂夫と竹内鉄工の従業員は愕然とした。汚れが取れていなかったのである。組み付けをやり直したり、洗剤の濃淡を変えたり、スプレーの圧力を変えたりしても結果はほとんど変わらない。全員の失望は計り知れなかった。

 しかし、ここで諦めるわけにはいかなかった。当時は竹内鉄工としても岐路に立たされており、新事業の発足は必要不可欠だった。もちろん、従業員の洗車の手間も解消したい。茂夫の号令の下、スタッフは洗車機の開発にとりかかる。

 新洗車機の根幹システムには、スプレー式ではなくブラシ式が採用された。これを米国のような大型コンベア式ではなく、コンパクトなアーチに組み付ける方策を見い出す。ブラシの材質、動き、水量、車体面圧などを試行錯誤しながら、ようやく門型洗車機の完成にこぎつけたのは1963年2月のことだった。製品名は“クルマをきれいにする美容師”という意味を込めて「CAR BEAUTICIAN」(カービュウティシャン)と名づける。

 物は完成した。次は販売だ。しかし、当時の竹内鉄工は販売ルートを持っていなかった。しかも、どこに大きな需要があるのかわからない。とりあえず、クルマを多く所有する会社などに営業をかける。そのなかで手応えがあったのが、一部のガソリンスタンドだった。営業スタッフはその後、ガソリンスタンドを中心にセールスをかけていく。

 1963年6月、ようやく3軒のガソリンスタンドにカービュウティシャンを試験的に設置してもらえるようになる。セールスとしては実物を見ながらの営業が出来るようになった。お客さんの評判も上々で、次第に引き合いが増え始める。

 社会状況も洗車機を後押しした。自動車の大幅な普及、いわゆるマイカー・ブームの到来だ。竹内鉄工は1965年に販売会社を設立し、洗車機の販売をより積極的に推し進める。マスコミへの露出やショーへの積極的な参加も試みた。その結果、洗車機の台数は飛躍的に伸びていく。同時にライバル社も出現するようになり、日本での洗車機事業は最初の発展期を迎えることとなった。

洗車と乾燥の一体化

 洗車機の普及と合わせるように、機械自体も大きな進歩を遂げていく。竹内鉄工は1965年にクルマの前後部も洗える「全洗浄タイプ」を発表。1967年には乾燥機を組み込んだ画期的な全洗条型の「コンビ」を開発した。

 この頃になると、洗車機を設置した専用スペースの大型洗車場が出現するようになる。1965年4月には日本初の沼津カーウオッシュセンター(静岡県)がオープン。ここは竹内茂夫がアメリカで見聞した洗車場を参考にして造られ、カリフォルニア社が扱うコンベア式の大型洗車機や高圧ブロアーなどを備えていた。それから8カ月後の12月には京都に日石ゴールドセンターが開設。さらに、栃木の村上石油、大阪のファイブテン、東京の目黒カーウオッシュセンターなど、続々と大型洗車場がオープンした。(文中、敬称略)

 このまま順調に進展するかに見えた日本の洗車機事業。しかし、1970年代に入ると大きな荒波が業界を襲う。それは、2度に渡るオイルショックだった−−。
(文中、敬称略)