日本モータースポーツの歴史01 【1963〜1967】

レースが日本のモータリゼーションを加速させた

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1963年、日本グランプリ開催

「世界に通用する本格的なサーキットを作りたい」という本田宗一郎の思いが実り、1962年9月に鈴鹿サーキットが完成した。F1グランプリがその鈴鹿にやって来るのは完成から四半世紀後のこと。日本で本格的なモータースポーツが産声を上げ、独り立ちするまでには、それだけの時間を必要としたのである。

 竣工年にまず2輪によるレースが行われると、翌1963年5月3日〜4日には、4輪による初の本格的なレースが行われた。「第1回日本グランプリ」である。
 名神高速道路・尼崎〜栗東間71.1kmが開通するのはその年の7月。日本人にとって高速走行が身近になるのはまだ先の話だった時代で、参戦するドライバーは“アウト・イン・アウト”というサーキットを走行する際のセオリーさえ知らない者が多かった。エントリーを決めた自動車メーカーも、高速高負荷走行に必要な対策を満足に知らないままレースに臨んだ。

日産&トヨタの戦略勝ち!

 そんな状態だったが、自動車メーカー各社の「レースで好結果を残すことが販売拡張に結びつく」という思いだけは強かった。過度な競争を避けるため、「メーカーはレースに直接タッチしない」という申し合わせを設けたが、これを真正直に受け止め、市販仕様のグロリアとスカイラインスポーツを持ち込んだプリンスは、レース後に悔しい思いをすることになる。
 発売になったばかりのフェアレディ(SP310)を投入した日産は、標準のシングルキャブに替え、輸出用と称してツインキャブを装着。トヨタは製造と販売が別会社だったのを巧みに利用し、「販売会社が携わるなら申し合わせに縛られることがない」と、自販が中心となってクラウンに手を加えた。

 5月3日に行われたGTレース(1300〜2500cc)は、トライアンフ勢を抑え田原源一郎選手が駆るフェアレディが優勝。国産2L級のセダンが集結したTレース(1600〜2000cc)は4日に行われ、多賀弘明選手がドライブするクラウンが独走で優勝した。また、400〜700ccクラスでは、三菱500やスバル450を退け、トヨタ・パブリカが上位を独占している。トヨタの張富士夫会長は当時、総務部PR課に属しており、5月11日に発行した社内報の中で、「古い伝統を持つ外車を相手に堂々と完全優勝したことにより、国産トヨタの名を、ますます高らしめたようであった」と報告している。

プリンスの覚悟と奮闘

 販売の主力車種が優勝したトヨタは、レース結果を社内に対してだけでなく、外に向けても積極的に利用。販売拡張に大きな効果を上げた。これが、ライバル自動車メーカーの闘争心に火を付ける。多くのメーカーが必勝体制を組んで1964年の第2回日本グランプリに臨んだが、最も熱心に取り組んだのはプリンスだった。

 トヨタや日産がレース専用部隊を立ち上げて臨んだ一方、プリンスは全社一丸となってレース車両の開発に取り組んだ。結果、T-Vクラス(1300〜1600cc)では、前年9月に発売したスカイライン1500(S50)が他を寄せ付けず、1〜8位を独占する。

 メインレースのひとつ、GP-IIに参戦する車両として、プリンスはスカイラインをベースにフロントピラーから前を200mm延長し、グロリア用のG7型直列6気筒エンジンを押し込んだ「スカイラインGT(S54)」を開発した。サスペンションやブレーキなどもレース専用に仕立て直されたスカイラインは、ホモロゲーション取得の規定を満たすために100台が生産され、レース直前に限定発売された。

劇的な“神話”の誕生

 必勝を期したスカイラインに強敵が現れる。レース直前になってエントリーを決めたポルシェ904である。前日の予選でクラッシュを喫し、ボディを応急処置した痛々しい姿だったが、市販車を改造したスカイラインに対し、水平対向エンジンをミッドシップマウントし、軽量FRP製ボディを被せた純レーシングカー、ポルシェ904のシルエットは、別世界の乗り物に見えた。

 レースは案の定、式場壮吉選手が運転するポルシェ904がリードする。これを生沢徹選手や砂子義一選手らのスカイラインGTが追い掛けた。そして7周目のヘアピン手前、周回遅れに行く手を阻まれた904の隙を捉え、生沢がアウトから式場をかわし、先行する。30mのリードを保ったままグランドスタンド前に戻ってきたスカイラインGTを満場の歓声が出迎えた。翌周には再びポルシェ904が先頭に立ち、勝利を飾ったが、レーシングカーのポルシェを、乗用車ベースのスカイラインが一瞬でも追い抜いたことに、見る者は興奮したのである。これが、“スカイライン神話”の始まりでもあった。

FISCOの熱闘

 第3回日本グランプリは1966年、完成したばかりの富士スピードウェイで行われた。第2回日本グランプリの敗戦にショックを受けたプリンスは、ポルシェばりのプロトタイプ・レーシングカーR380を製作。4台を送り出し、砂子一義選手が乗るカーナンバー11が前回の雪辱を果たした。滝進太郎選手が運転するポルシェ906は一時リードを奪ったものの、給油に時間を要したために逆転され、その後リタイアした。

 プライベーターが持ち込んだ外国産レーシングカーに国産ワークス勢がなりふり構わずに挑み、力を付けていったのが、国内モータースポーツ活動の黎明期の姿だった。