スカイラインGT-R(R32) 【1989,1990,1991,1992,1993,1994】

レースでの勝利を目指して復活した赤バッジのR

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「901運動」の追い風に乗って--

 1980年代の半ば。スカイラインの開発主管だった伊藤修令(いとうながのり)はR31型“7thスカイライン”の改良と並行して、次期R32型スカイラインの企画立案を進めていた。そして1985年末には早くも本格的な構想を練り、翌1986年3月には基本コンセプトをまとめる。そしてこの時、伊藤は重大な決心をする。赤バッジのスカG、すなわち“GT-R”の復活である。

 伊藤はもともとスカイラインが作りたくてプリンスに入社した人間だった。伊藤にとってスカイラインは“走りのクルマ”。桜井眞一郎とバトンタッチして7thの開発最終段階からスカイラインの主管になった伊藤には、もう一度スカイラインの黄金期をつくり、若い世代にスカイラインの魅力を伝えたい、という強い思いがあった。ホームランバッターの魅力がヒット数や打率ではなく、あくまでホームランであるように、“走りのスカイライン”と認められた以上、細かく説明しなくても“走りの凄さ”が認知してもらえるクルマ、すなわちGT-Rが必要と判断したのである。

 伊藤はR32型GT-Rの開発に当たって、大きなテーマを掲げる。それは「レースで勝てるクルマ」それも「2、3年先まで勝ち続ける圧倒的な速さを持つクルマ」だった。

エンジンの目標出力600馬力オーバー!?

 開発陣がまず検討したのは、心臓部となるエンジンだった。レース仕様の目標出力は600馬力以上。富士スピードウェイでのラップタイムを念頭に置き、勝つために必要な出力を入念に算定した数値である。伊藤にとってGT-Rは“市販車をチューンしてレースに勝てるクルマ”だった。そのためベースエンジンには高い潜在能力が求められた。当時の日産の量産高性能エンジンは、RB型系直列6気筒DOHC24VのほかにVG型系V6DOHC24V、開発中のVH45型系V8DOHC32Vなどがあった。そのなかで開発陣は、中近東向けのローレルに採用していたRB24E型2.4L直6OHCユニットを選択。これをベースに、DOHC24Vヘッドとツインターボを組み合わせる計画を立てた。

 しかし実際に開発を開始すると2.4Lでは非力なことが判明した。開発陣は排気量を2.6Lにまで引き上げる決断を下す。さらに排気量拡大だけでなくクランクシャフトを新設計し、ブロック剛性も引き上げて耐久性を向上させた。ほかにも直動式軽量インナーシム型バルブリフターやツインセラミックターボチャージャー、6連スロットルチャンバーといった先進アイテムが組み込まれていく。

 完成したRB26DETT型の試作1号機は、1987年8月に火入れ式が行われた。1号機はテストベンチで312馬力をマークした。ベースエンジンとしては十分な数値である。しかし実際に試作車に搭載して走るとレスポンスがいまひとつで、中間域のピックアップもよくなかった。伊藤はエンジンチームに異例の吸気系の全面見直しを指示した。数値ではなく実際のフィーリングを重視したからだ。伊藤はGT-Rの開発にあたって「ドライバーの声は神の声だと思え」と開発チームに厳命していた。設計見直しはその一貫だった。

4WDシステムへの挑戦

 エンジンの開発が進むなか、社内から駆動メカニズムに関する新たな話が持ち上がる。強大な馬力に対応するためには、パワーをフルに路面に伝えられる4WDシステムが必要なのではないか--。

 GT-Rが参戦を予定していたのはツーリングカーレースのグループAカテゴリーだった。グループAにはタイヤ幅やリム径などに厳しい規定があり、理想的なワイドタイヤやホイール幅は使用できない。それを考えると、FRのままで600馬力を路面に伝え切るのは相当に難しかった。また、当時はポルシェ959など、スーパースポーツの4WD化が流行の兆しを見せつつあった。そこで、GT-Rに4WD化の話が持ち上がったのである。レースに勝つための先進的なクルマを製作する--当初の目標を達成するために、開発スタッフはGT-Rの4WD化を決心する。

 4WDシステムは開発ルームと中央研究所で四駆連絡会を作り、企画が進行する。当初、開発陣は既存のアテーサシステムをベースにした改良版を検討する。アテーサはセンターデフにビスカスLSDを組み合わせた、いわゆるファーガソンタイプの4WDだったが、GT-Rに搭載する際には操縦性と旋回性能に難があった。この問題を解決するためには、新たな4WDを採用するしかない。そんな中、中央研究所のスタッフが多板クラッチを使った斬新な4WDシステムの開発に成功する。後輪駆動をベースに、走行条件に応じて前輪にトルクを配分する湿式多板クラッチを用いた“電子制御トルクスプリット4WD”を作り上げたのだ。後に「アテーサE-TS」と名づけられるこの新4WDシステムは、1987年3月にGT-Rへの正式採用が決定された。

ニュルブルクリンの厳しい洗礼

 レースに勝つための先進的なクルマを製作するという開発スタッフのこだわりは、1988年にひとつの試練を迎える。それはドイツのニュルブルクリンクにおける過酷な走行テストだった--。

 最初のニュルブルクリンク・オールドコースでのテストは、1988年10月に行われた。初めにステアリングを握ったのは日産ヨーロッパ・テクニカルセンターのテストドライバーで、コースを熟知しているダーク・ショイスマン。その横には、日本のシャシー実験部テストドライバーの加藤博義(2008年・厚生労働省より現代の名工に選定)が同乗する。

 加藤は当初、ニュルブルクリンクのテストを楽観視していた。クルマ自体は栃木や村山でのテスト走行によってある程度は熟成されている、過酷と言われるニュルブルクリンクのコースでも何とかなるだろうと考えたのだ。しかし、この予想は見事に裏切られる。

 クルマはコースを半周もしないうちにオーバーヒートを起こし、データをとるどころではなくなる。急遽、サーキット近くにガレージを借り、現地に赴いたスタッフが懸命にクーリング対策を施した。アクリル製のフロントグリルを取って金網を付け、アルミ板で即席のフードトップモールやリップスポイラーを作る。エンジンフードにも穴を開けた。ほかにも色々とエアの導入&排出口を設ける。結果的にニュルブルクリンクを1周走れるようになるまでに、1週間ほどの時を要した。

再び突きつけられた難題

 オイルの片寄り対策や足回りのセッティング変更など、試行錯誤を繰り返しながら、2週間あまりのテスト走行を敢行した開発陣。最終日には、8分30秒台の好タイム(当時のポルシェ944ターボが8分40秒台)を記録するまでになった。同時に、大きな課題も見つかる。強すぎるアンダーステア、サスペンションの支持剛性の低さ、電子制御のチューニング……。そして、「車速やハンドリングなどのインフォメーションを、ドライバーがどうすればリニアに感じ取ることができるか」というテーマが、改めて開発陣に突きつけられたのである。

 ニュルブルクリンクから帰国後、開発陣は早速GT-Rの改良に着手する。スーパーHICASやアテーサE-TSの設定値の見直し、サスペンションの支持剛性のアップなど、改良箇所は山ほどあった。とくに走りに関しては、「スタビリティをどれくらい削るか」に苦心する。電子制御系を見直してアンダーステアを弱くしながら、ドライバーへのインフォメーション性能を高めるチューニングが、開発スタッフによって進められた。

ついに市場デビューへ

 1989年5月、GT-Rは、他のR32型スカイライン・シリーズとともに正式発表される。しかしまだ開発は続行していた。1989年の7月、再びGT-Rをニュルブルクリンクに持ち込む。改良すべきところはすべて改良した。今度こそ、いい走りができるはず--。テストドライバーの加藤がステアリングを握り、コースに乗り出す。コーナリングは1回目のテストとは比べものにならないほどスムーズで、しかもドライバーへのインフォメーション性能も高い。クーリングも十分で、問題になるような油圧低下も起こらなかった。そして1周のラップタイムは、以前より10秒あまりも短縮する。この時点でGT-Rは、新たな伝説を刻むための資格を見事に獲得したのである。

 ニュルブルクリンクの最終テストから約1カ月後の1989年8月、R32型のGT-R、正式名称“BNR32型スカイライン2ドアスポーツクーペGT-R”の市販が開始された。エンジンはRB26DETT型2568cc直6DOHC24V+ツインセラミックターボで、280ps/36.0kg・mのパワー&トルクを発生。綿密なチューニングを施した電子制御トルクスプリット4WDのアテーサE-TSやスーパーHICASも標準装備する。大型のエアインテークを組み込んだ強面のフロントマスクに迫力の前後ブリスターフェンダーとリアスポイラー、16インチの鍛造アルミホイール、モノフォルムの専用バケットシートなども大きな話題を呼んだ。

 GT-Rの車両価格は445万円と非常に高価だった。しかし、人気は圧倒的だった。往年のGT-Rと同様、“最強最速の市販車”に仕上がったR32型スカイラインGT-R。市販デビュー後は、開発当初から掲げる「レースで勝つ」という目標に驀進していくこととなった。
(文中・敬称略)