人物・風戸裕 【1947~1974】

駆け抜けた貴公子レーサー

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F1に最も近かった男

 1970年代初頭、「F1に最も近い」と目された風雲児のようなドライバーがいた。風戸裕である。1949年、千葉県で生を受けた。
 当時の最先端技術だった電子顕微鏡の事業で成功を収めた企業経営者を父に持つ風戸は、恵まれた家庭環境に育つ。モータースポーツの世界には高校在学中の1966年、弱冠17歳で足を踏み入れた。軽免許(1968年に制度廃止)を取得すると、親に買い与えられたマツダ・キャロルを船橋サーキットに持ち込み(通学にも使っていた)、ジムカーナ競技に参加。勝利を味わうことでモータースポーツに対する興味を覚えることになる。

 風戸にとって1967年5月3日は特別な日になった。富士スピードウェイで開催された「第4回日本グランプリ」、凱旋帰国した生沢徹の活躍する姿が、レーシングドライバー風戸を生む大きな原動力となったからだ。生沢が駆るポルシェ・カレラ6が、日産R380との激闘を制し、前年のGPレースの雪辱を果たしたのだった。

 ホンダS800を手に入れた風戸は、船橋サーキットで開催されていたシリーズ戦に出場し、デビューレースで2位の好成績を収める。翌68年、風戸はレース活動に本腰を入れて取り組み始めた。船橋サーキットが閉鎖されたため、主戦場を富士スピードウェイに移し、腕を磨くことに専念する。といっても、大学生とレーシングドライバーという二足のわらじを履いての参戦だった。結果が出なければレースを潔く諦めてもいいとする、ドライな一面も持ち合わせていたのである。

 当時のレース界では、日産やトヨタのワークス勢が台頭。プライベーターの若者が際だった成績を残すのは事実上不可能に近く、トップクラスを狙うには、道具であるレース車両に資金を注ぎ込む必要があった。

ポルシェ910を獲得&優勝!

 S800で「富士チャンピオンレース」にフルシーズン参戦した翌年の1969年、風戸はS800を捨て、フォーミュラにステップアップする。神山モータースの仲介で手に入れたブラバムにS800のエンジンを取り付けて大排気量マシンに混ざって走り、クラス優勝を獲得するなどした。

 しかし総合優勝をするにはもっと優秀なマシンを手に入れる必要がある。この現実を痛感した風戸は、父親から資金提供を受けてポルシェ910を購入。10月10日に行われた「日本グランプリ」に有力プライベーターのタキ・レーシングから出場すると、総合8位/クラス優勝を達成。翌11月の「富士ゴールデンシリーズ最終戦」で、念願の総合優勝を果たした。

 一躍トップドライバーの仲間入りを果たした風戸は、1970年に自らのチーム「風戸レーシングリミテッド」を設立。社長業という三足目のわらじを履くことになる。レースでは、ポルシェ910で4レースに出場して3勝。まさに破竹の勢いだった。

アメリカCAN-AMに武者修行!

 国内トップクラスの実力を証明した風戸は1971年、世界に目を向ける。武者修行の場に選んだのは、大パワーマシンがしのぎを削るCAN-AM(カンナム)だった。

 当時のCAN-AMはJ・スチュワート選手やD・ハルム選手など、有力F1ドライバーが参戦する競争の激しいシリーズだった。ここで初挑戦の風戸は最高位5位、年間ランキング10位の成績を収め、現地では相応の評価を得ている。

 1972年、風戸はF1に近づくために戦いの場をヨーロッパに移し、F2に参戦する。前年のチャンピオンカー、マーチのワークスシートを得るために、マネージャーのM・モズレー(後のFIA会長)と交渉。「優秀な若手と契約するつもり」と断られ(後のF1世界チャンピオン、N・ラウダ選手のことだった)、セミワークス待遇での参戦となった。満足のいく体制でなかったこともあり、1972、1973年のF2参戦ではめぼしい成績を残すことができずにいた。

世界に羽ばたく直前に…

 1973年の国内レースは富士GC(グラン・チャンピオン、通称グラチャン)シリーズに限定して復帰。「第4戦富士マスターズ250キロで」優勝。改めて、国内トップクラスの実力を見せつけた。

 そして運命の1974年6月2日の富士GC「第2戦グラン300キロレース」。風戸は前年の同シリーズを戦ったシェブロンB23・BMWをロングテール化し、サスペンションを最新のB26のそれに換装したシェブロンB23/26・BMWでエントリー。第1ヒートを5位で終えた。
 第2ヒートのスタート直後、富士スピードウェイの名物だった30度バンクで2番手争いをする先行車が接触。あおりを食ってはじき飛ばされた風戸のマシンは、ガードレールの支柱に激突して炎上。短い生涯を閉じることになった。享年25。

 風戸は6月下旬に開幕するヨーロッパF2に、有力チームの一角を占めるシェブロンのワークスドライバーとして参戦することになっていた。そしてその先にはF1がしっかりと見えていた。一方で、この頃には政治家秘書のわらじも履いていた風戸は、27歳までにF1ドライバーになる目処が立たなければ、政治家に転身するつもりでいたのだという。風戸裕はF1に強い憧れを持つと同時に、“プロフェッショナル”の意味を熟知していたドライバーだった。日本が失った宝の一人である。
(文中敬称略)