ホンダ・エンジン01 【1946~1963】

始まりは自転車用補助エンジン



自転車用補助エンジンの開発

 先進的で高性能、しかも独創的なアイデアでエンジンを開発し続ける本田技術研究所。世界屈指の「エンジン屋」の始まりは、戦後間もなくの1946年10月にまで遡る。
 1937年に東海製機重工を設立し、ピストンリングの開発・生産を行っていた本田宗一郎は、終戦を迎えると同社をトヨタ自動車工業に売却してしまう。日本の体制が大きく変わったため、その状況を見極めたいというのが理由だった。またピストンリングだけに留まるのではなく、エンジンのすべて、そして最終的にはモーターサイクルや自動車を研究し、開発したいという個人的な意欲もあった。東海製機重工を売却した翌年、宗一郎は新たな事業を興す。会社名は「本田技術研究所」。内燃機関の研究・開発と製造を目的とした、現在のホンダの源流となる会社を設立したのである。

 その本田技研に、宗一郎の知人から「何かに使えないだろうか……」といって1基のエンジンが持ち込まれる。旧陸軍の6号無線機用小型発電エンジンだ。宗一郎はこれを改良し、自転車に取り付けることに成功する。エンジンの搭載位置は自転車のフレームの三角形内。Vベルトを介して後輪スポークに装備したプーリーに動力を伝えた。
 補助エンジン付き自転車、その排気音から後に“バタバタ”と呼ばれるモデルの開発に成功した宗一郎は、さっそく量産化のために発電機の製造元である三国商工(現・燃料供給装置メーカーのミクニ)を訪れ、残っていた500基のエンジンをすべて買い取る。それを浜松市(静岡県)に急いで建てた工場に運び込み、自転車に組み付けた。

 1946年12月から販売された本田技研の第1号量産モデルは、その使い勝手のよさと経済性が受けて大ヒットする。そして在庫が底をつくと判断した宗一郎は、自社製エンジンの開発に乗り出した。まず出来上がったのは、シリンダーヘッドが煙突のように上部に突き出した50ccの2サイクルエンジン、通称“煙突エンジン”だった。これを基に改良を重ね、1947年にはついに量産型の「A型」が完成する。50cc・2サイクル・ロータリーバルブのA型は、量産性を考えてダイキャスト製法を採用。生産は浜松市内に新設した工場(野口工場)で行われた。

4サイクルエンジンに挑戦

 A型の量産に成功した後も、宗一郎はエンジン開発の手を止めなかった。1949年には自社製フレームに96ccエンジンを搭載したC型がデビュー。同年にはホンダ初の本格的なモーターサイクルであるドリームD型が登場した。
 2サイクルエンジン車でヒットを飛ばし続ける本田技研。一方、社内では2サイクルに対するデメリットが議論されていた。大量の白煙、甲高い排気音、吹き返しによる油汚れ、プラグのブリッジ現象、オイルの消費量……。さらに2サイクルは構造が単純で部品点数も少なく済むために、他メーカーの参入と追随が激しかった。この状況を打破するためには、先進的な4サイクルエンジンを作るしかない--。設計を担当したのは、後に2代目社長となる河島喜好だった。河島は当時の主流だったサイドバルブ(SV)ではなく、オーバーヘッドバルブ(OHV)という先進機構を採用する。さらに馬力を2サイクル以上に発生させることを念頭に置いた。

 1951年、渾身の146cc・4サイクルエンジンを搭載したドリームE型がデビューする。最高出力は当時としては驚異的な5.5psを発生。テスト走行では河島自らが箱根越えに挑戦し、雨天の山岳路を一気に駆け上った。

四輪車市場への進出

 主力エンジンを4サイクルとし、ドリーム号シリーズなどで販売成績を伸ばした本田技研。1955年には、生産台数で国内№1の2輪車メーカーにまで登りつめていた。
 勢いに乗る本田技研が次にターゲットに据えたのは、四輪車への進出だった。宗一郎の陣頭指揮のもとに四輪車の開発は急ピッチで進められ、同時にフォーミュラ1(F1)マシンの研究も進行させる。

 本田技研初の四輪車が一般に初めて披露されたのは、1962年開催の第9回全日本自動車ショーだった。ブースに展示されたのは2シータースポーツのS360とS500。最も注目を集めたのはエンジンで、総アルミ合金製の4ストローク直列4気筒ユニットは、ダブルオーバーヘッドカムシャフト(DOHC)のヘッド機構と1気筒当たり1個の4連キャブレターを備えていた。最高出力はS360の356ccで33ps/9000rpm、S500の492ccでは40ps/8000rpmと、当時の国産車としては驚異的なスペックを誇る。この時点で、ホンダのエンジン屋としての名声は四輪車の世界にも轟くようになったのである。