日本カー・オブ・ザ・イヤーの歴史01 【1980,1981,1982,1983,1984,1985】

先進技術と国際化の流れを象徴

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1980年「日本カー・オブ・ザ・イヤー」が本格発進

 「カー・オブ・ザ・イヤー」とはネーミングどおり、その年を代表するクルマを選ぶ賞だ。斬新なメカニズムはもちろん、走り、使い勝手、商品性などを総合的に判断し“イヤーカー”を選定する。各国で同様の賞を設定しており、欧州では1964年(初代受賞車はローバー2000)から開始。日本では1970年「モーターファン」を発行していた三栄書房主催でスタートした。

しかしカー・オブ・ザ・イヤーは、さまざまな視点を持つ選考委員が真に優秀なクルマを選ぶオフィシャルな行為である。本来の趣旨を考えると1社主催というシステムはなじまない。そのため1980年に、現在と同様の主要自動車専門誌や一般誌の共同主催システムに改訂。同時に名称も「日本カー・オブ・ザ・イヤー」として再出発した。

イヤーカーは欧州車を先生からライバルに変えた!

 新生なった日本カー・オブ・ザ・イヤー、80-81年の初回イヤーカーは「マツダ・ファミリア」が獲得した。ファミリアとしては4代目となる通称FFファミリアは、やや保守的な傾向があった日本の自動車界にあって革新的なクルマだった。メカニズムは当時最先端だったエンジン横置きのFFレイアウトを採用。台形基調の安定感のあるスタイリングはもちろん、シャープな走り、そしてサンルーフ、回転計、パワーウインドーなどの快適装備を標準化した商品構成など、すべてが新しかった。

大衆車クラスでもFRレイアウトが主流で、いわば大型車のダウンサイジング版がもてはやされていた日本で、小型車ならではの独自設計を施し、そして販売的にも大成功を収めた最初のケースがFFファミリアだった。このクラスの偉大なる先駆、VWゴルフに強い影響を受けていたことは確かだが、ゴルフ以上のスポーティ・フィールなど独自の個性を身につけていたのも好印象をもたらした。ちなみにファミリアはマークⅡ、レパード、ミラ・クオーレなどを退けての受賞だった。

 翌81-82年のイヤーカーは「トヨタ・ソアラ」である。このクルマは日本自動車界の技術の進歩を象徴していた。最上級モデルの2800GTは、170psを生み出す2.8L・DOHCストレートシックスを搭載。従来の国産車では味わえなかった伸びやかでパワフルな走りをもたらした。パフォーマンスだけでなく全体を貫く先進の快適設計も圧巻で、デジタルメーターやマイコン制御オートACなど、いわば先進技術のショーピースといえた。想定ライバルはBMW6シリーズやメルセデスSLCの欧州勢。輸出予定のない日本専用車だったもののメーカーではアウトバーン試乗会を催し、その卓越した高速性能を主要評論家に実感させた。

ソアラはCMキャッチコピーだった「未体験ゾーン」を体現した、まったく新しいコンセプトのワールドサイズ・スペシャルティだったのだ。ソアラ以降、BMWやメルセデスは“先生”ではなく、“ライバル”として認識するようになる。

国際車への発展、それを象徴するキメ細やかなクルマ作りへ

 82-83年は、日本車が“国際車”に成長したことを実感させた。この年のイヤーカーは「マツダ・カペラ&フォード・テルスター」だった。広い居住空間と安定した走りのために、駆動システムを含め各部を全面リニューアルした意欲作だった。特筆ポイントは確かなフットワーク。これは日本以上に欧州市場を意識した結果だった。

マツダは国内では第三勢力に過ぎなかったが、欧州ではしだいに確固たるブランドイメージを築きはじめていた。カペラ&テルスターはその流れをさらに加速させるため思い切ったクルマ作りをしたのである。ボディラインアップに合理的な5ドアHBをプラスしたのもその表れだった。

ボディタイプ別に最適設計を徹底した“ワンダーシビック”

 83-84年は「シビック&バラード」がイヤーカーに輝いた。多様なユーザーニーズに対応する自由で細やかなクルマ作りが評価されたのだ。シビックは3ドアHB、4ドアセダン、5ドアワゴン(シャトル)、バラードは3ドアクーペ(CR-X)、4ドアセダンとシリーズ合計6タイプのラインアップを誇った。

特徴はボディタイプ別にサイズ設定&パッケージングを変えた最適設計を施したこと。エンジンや足回りなどの基本メカニズムは共用するものの、基本的にボディごとに独立したクルマだった。シビックのHBとバラードCR-Xは、あくまで低いスポーティ設計。セダンは室内空間を重視したトールデザイン。シャトルは機能的なショートノーズワゴンにまとめていた。このシビック&バラードほどボディタイプ別に最適設計を施したケースはこの後もない。

新たな価値の創造、日本からの提案の時代はじまる

 84-85年は、ニュージャンルへの挑戦が印象的だった。イヤーカーは「トヨタMR2」である。MR2は日本初の量産ミッドシップだ。前後の重量配分に優れたミッドシップ方式ならではの俊敏な操縦フィールが刺激的な存在で、リトラクタブル式のヘッドランプをもつシャープなスポーツカー・ルックも好評を博した。しかしMR2は、ミッドシップ=リアルスポーツという公式を打ち破ったチャレンジャーでもあった。

MR2の車名はミッドシップ・ランナバウトを意味する。すなわち都市で活躍する新世代シティカーとしても企画されていた。パーソナルユースでは2名以上乗車するケースが少ないことに着目。ミッドシップながら良好な視界と十分なラゲッジスペースを与えることで、走りが楽しい個性的なシティカーに仕上げていたのである。パワフルな1.6L・DOHCエンジンの他にジェントルな1.5L・OHCユニット搭載モデルを設定していたのはそのためだった。市場ではスポーツカーとしての側面がクローズアップされたが、個性的なシティカーという個性は、最新のBMWミニにも通じる普遍性を持っていた。