SUBARU WRCの歴史01 【1966-1993】

世界の頂点を目指した“六連星”チャレンジ

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1000から始まったスバルのラリー活動

 1966年にデビューしたスバル1000は、「水平対向エンジン縦置き駆動方式」という、現代のスバルの基本形式を確立した1台である。独創のパワートレーン配置とサスペンション設計が生むハンドリングの良さ、なかでもダート走破性の高さが評判を呼び、ラリーフィールドで脚光を浴びることになる。当初は半ワークス・半プライベーターのような形で活動が始まり、国内の主要ラリーだけでなく、北米カリフォルニア半島を縦断する「バハ500」に出場したりした。

 1972年にレオーネがデビューする頃になると、ラリー参戦はワークス活動に移行。アフリカの「サファリラリー」、オーストラリアの「サザンクロスラリー」に挑戦した。1977年の「ロンドン・シドニー・ラリー」には、レオーネ4WDが出場。ここに至って水平対向エンジン縦置き駆動方式は、FFから4WDに進化する。
 それまでの4WDは、2WDでは走行不能な悪路をゆっくり走破するための機能だったが、スバルはそれを悪路を高速で駆け抜けるためのツールに変えた。富士重工は1989年まで、レオーネとともにサファリラリーを中心にWRC(世界ラリー選手権)に参戦。最高位は総合5位だった。

レガシィで目指したWRC制覇

 1988年、富士重工は系列会社としてSTi(スバル・テクニカ・インターナショナル)を設立する。後にWRCワークス活動を率いる組織の初仕事は、初代レガシィによる世界速度記録への挑戦だった。1989年1月、3台のレガシィがアリゾナのテストコースで走行を開始。10万キロを447時間44分09秒887で走破し、平均速度223.345km/hの世界記録を達成する。220psを発生する2.0L水平対向4気筒DOHCターボ“EJ20”を積んだレガシィRSは、世界速度記録を勲章に、次なる目標をWRC制覇に定めることになる。

 WRC参戦のプロ集団であるプロドライブ社と手を組んだ富士重工は、イギリスを活動の前線基地に定めた。レガシィRSのWRCデビューは、1990年のサファリラリー。5台のグループA車両と1台のグループN車両が出場し、グループAの1台が総合6位に入賞。地元ケニア出身のパトリック・ジル選手がドライブしたグループNは総合8位、クラス優勝の快挙を成し遂げた。

 レガシィはこの年5戦に出場。第8戦の1000湖と第9戦のオーストラリアで連続4位入賞を果たしたが、課題は山積みだった。一例がパワー。当時のグループAは、エアリストリクターの装着義務付けによって吸入空気量を制限し、最高出力を300馬力以下に抑える意図が働いていた。だが、経験のあるライバルが300馬力に近いパワーを絞り出していたのに対し、レガシィは数値上明らかに劣っていたのである。

スバルの勝利を支えたマクレー選手

 14戦中9戦に出場した1991年の最上位は、ベテランドライバー、マルク・アレン選手による第2戦スウェーデンの3位だった。この年レガシィは、イギリス国内選手権にもエントリー。ステアリングを握ったのは新進気鋭のコリン・マクレー選手で、6戦中5勝を挙げて参戦初年度でチャンピオンを獲得した。そのご褒美として、WRC最終戦のRACに出場している(持ち前のスピードは見せたものの結果はリタイア)。

 1992年は若手のマクレー選手と、ベテランのアリ・バタネン選手のコンビで戦った。リストリクター径は前年までの40mmから38mmへと2mm縮小されたが、失うはずのパワーをエンジンマネージメントの改良などでトルクに転化し、戦闘力を取り戻していた。その成果だろう。初戦となるスウェーデンで、マクレー選手が2位でフィニッシュ。最終戦RACでは、バタネン選手が2位に入った。
 次は優勝である。1993年はシーズン後半からインプレッサの投入が決まっていた。その前に勝利を、の願いが通じたのか、レガシィにとって最終戦となる第8戦ニュージーランドで初優勝を手にした。ドライバーはマクレー選手。3日目にトップに立ったマクレー選手は最終日、後続との差をさらに広げて逃げ切っている。スバル、そしてレガシィにとってのWRC初優勝なら、マクレー選手にとってもWRC初優勝だった。