メラク 【1971〜1983】
名門が送り出した2+2MRスポーツ
従来は運転にある程度のスキルを必要としたレーシングカー直系のイタリア製スーパースポーツカーは、1960年代中盤になると、運転が容易で、快適性に富み、しかも見栄えのする高性能GTカー、後にいうスーパーカーへと変貌を遂げる。フェラーリからは275GTBや275GTB/4、365GTB/4などが、ランボルギーニからは350GTや400GT、ミウラなどが、デ・トマソからはマングスタが、そしてマセラティからはミストラルやギブリなどが市場に送り出された。
より身近な存在になったスーパースポーツカーに対し、ユーザーからはさらなる要望が出される。もう少し安い価格で、もっと荷物や人が乗せられる日常ユースにも最適なスポーツカーがほしい--。その代表格が、1965年デビューのポルシェ911だった。欧州市場のみならず、北米マーケットでも販売台数を大いに伸ばしていた911は、高い走行性能に加えて、機能性に優れる2+2のパッケージングを採用していた点が人気の要因となっていた。イタリア製スポーツカーでも、早急に2+2レイアウトを導入したモデルを開発すべきだ--。ユーザーの声に応え、フェラーリとランボルギーニ、そして老舗メーカーのマセラティは、さっそく開発に乗り出した。
マセラティがいち早く2+2スポーツカーの開発に乗り出したのには、背景があった。当時の親会社であるシトロエンが、このクラスへの参入を強く勧めたのだ。マセラティは1968年に自社の株式の60%あまりをシトロエンに譲り渡して同社の傘下に入り、以後はマセラティのプレミアム・ブランドとしての価値を高める戦略が推し進められる。その一環として、マセラティは当時の最新スーパースポーツの潮流であるミッドシップカーを企画し、1971年に同社初の2座ミッドシップスポーツカーである「ボーラ」を市場に送り出した。続く第2弾には、新カテゴリー車である2+2スポーツカーの設定がふさわしいと、シトロエンおよびマセラティの首脳陣は判断したわけだ。
ティーポ122のコードネームが付けられた新2+2スポーツカーの開発は、一方で予算と開発期間にかなりの制約が加えられる。財政的な余裕がなかったマセラティとしては、可能な限り既存のコンポーネントを使用し、同時に開発期間を短くしたかったのである。提携関係にあるシトロエンも同意見で、目的を達成するために同社のフラッグシップGTであるSMのパーツを拡大採用するよう進言した。
ボーラの登場から1年ほどが経過した1972年開催のパリ・サロンにおいて、マセラティはティーポ122の市販版となる「メラク」を発表する。同社の車種ラインアップとしては、ボーラの1クラス下の弟分という位置づけだった。
メラクの骨格はボーラと基本的に共通のモノコックボディで、リアコンパートメント回りを変更して2+2のパッケージングを形成する。ホイールベースは2600mmに設定し、サスペンションには専用セッティングの前後ダブルウィッシュボーン/コイルを採用した。車両デザインはボーラと同様にイタルデザインが担当。ボーラのファストバックスタイルからノッチバックスタイルに一新するとともに、ルーフからリアエンドにかけて左右各1本のバー(フライングバットレス)を組み込んでスポーティなファストバック風のルックスに仕立てる。この新造形は、エクステリアの個性化と同時に後方視界の改善にも貢献した。ほかにも、フロントグリルの造形やルーフパネルの材質を変更するなどしてボーラとの差異化を図る。
インテリアはシトロエンSMと同仕様のパーツ、具体的には中心部を楕円形状とした1本スポークのステアリングホイールやセンター部までを一体式としたメーターパネル、幅広のセンターコンソールなどを組み込んでおり、スポーツカーというよりも上級サルーン的な雰囲気で仕立てられていた。後席空間はレッグルームが少なく、しかもシートバックがほぼ直立していたため、事実上は荷物用のスペースだった。
メカニズム面でもシトロエンSM用のユニットが多く使われる。前後ディスクブレーキの制動機構およびラック&ピニオン式の操舵機構には、SMと同様、エンジン駆動の高圧ポンプによる油圧を用いた作動システムを導入。さらに、ステアリングにはパワーセンタリング機構付のアシストシステムも装備した。
メラクがミッドシップに縦置きするエンジンは、シトロエンSM用にマセラティが開発したC114ユニットの2965cc・V型6気筒DOHCを専用チューニングして搭載。8.75の圧縮比と3基のウェーバー製42DCNFキャブレターによるスペックは、最高出力190hp/6000rpm、最大トルク26.0kg・m/4000rpmを発生した。また、エンジン後部には油圧ポンプとアキュムレーターをセットする。組み合わせるトランスミッションは1速2.92/2速1.94/3速1.32/4速0.94/5速0.73/最終減速4.85のギア比を持つ5速MTで、タイヤには前185VR15/後205VR15サイズを装着。最高速度は240km/hと公表された。
マセラティとシトロエンが大きな期待を込めて市場に放った新カテゴリー車のメラク。しかし、予想外の壁が同車を待ち受ける。1973年10月に勃発した第4次中東戦争を起因とするオイルショックだ。燃費の悪いスポーツカーには逆風が吹き、必然的にメラクの販売台数は伸び悩んだ。悪いことはさらに続き、シトロエンの経営状態が急速に悪化。1974年にはプジョーとシトロエンが企業グループを結成することで合意し、一時はマセラティもプジョーと提携を結ぶものの、経営上のメリットが少ないと判断したプジョーは翌1975年に提携を撤回する。窮地に追い込まれたマセラティ--苦境を救ったのは、かつて同社のレーシングドライバーを務めたことがあるアレハンドロ・デ・トマソ率いるデ・トマソ・アウトモビリだった。
デ・トマソの傘下に入って新体制を構築したマセラティは、同社の車種ラインアップのエントリーモデルに位置するメラクの改良を積極的に実施していく。まず1975年には、高性能版の「メラクSS」を発表。搭載エンジンは既存の2965cc・V型6気筒DOHCユニットをベースに、圧縮比を9.0、燃料供給装置を口径の大きなウェーバー製44DCNFキャブレター×3基に変更し、最高出力は220hp/6500rpm、最大トルクは27.5kg・m/4500rpmにまで引き上げた。また、冷却効率の向上を目的にフロントフードにルーバーを追加する。インパネやステアリングの造形も、マセラティのオリジナルデザイン(ボーラと基本的に共通)に切り替えた。装着タイヤは前195VR15/後215VR15に拡大される。同時に、各部の軽量化を図って車重を20kgほど軽減(1300kg)。最高速度は従来比+10km/hの250km/hと公表された。
1976年になると、ベーシック仕様の「メラク2000GT」が市場デビューを果たす。搭載エンジンは1999cc・V6DOHCユニットで、9.0の圧縮比と3基のウェーバー製42DCNFキャブレターにより、最高出力は170hp/7000rpm、最大トルクは19.0kg・m/5700rpmを絞り出した。内外装の演出は基本的に上級仕様に準じるが、ボディカラーの選択は限られ、またマットブラックのバンパーやサイドストライプなどのアイテムが組み込まれた。メラクに2リッタークラスのモデルを設定したのは、当時のイタリアの税制区分が背景にあった。オイルショックの経験から、排気量2リッター以下のクルマはVAT(Value Added Tax=付加価値税)が優遇されたのである。親会社のデ・トマソの勧めもあって、マセラティは税制面に配慮したメラクをラインアップしたのだ。
メラクは兄貴分のボーラの影に隠れた存在ではあったが、その合理的なパッケージングとスポーティなスタイリングは高く評価され、やがてマセラティ車を支える定番モデルに発展していく。日本でもスーパーカーの1台として人気を集める。
イタリアでのミッドシップ2+2スポーツの人気は1970年代終盤になると急速に落ち始め、ランボルギーニのウラッコは1979年に、フェラーリのGT4は1980年に生産を中止する。一方、メラクは1980年代に入っても生産ラインに乗り続け、最終的に1983年まで販売された。1978年に生産を終了したベース車のボーラよりも、さらにライバルのミッドシップ2+2スポーツ車よりも長い約11年のロングセラーモデルとなったのは、ジウジアーロ・デザインの巧みさ、そして数々の困難を乗り越えながら造り続けたマセラティ・エンジニアの意地が、スポーツカー・ファンを惹きつけたからにほかならない。総生産台数1830台あまりを数えるメラクは、まさにマセラティの苦難の歴史のなかの“星”(メラク=おおぐま座β星)となる1台だったのである。