S500 【1963,1964】
颯爽と登場した先駆けSシリーズ
ホンダS500は、1962年10月の東京モーターショーでS360とともにプロトタイプが公開された。その折に発売は1963年5月と公表する。しかし、その時期を過ぎても発売される気配はなかった。諸般の事情によりS360の発売を諦めたことにより、S500をプロトタイプ以上に理想のスポーツカーにしようと、多くの設計変更を加えていたからだ。
S500は、1963年の10月になって、ようやく発売される。生産型はボディが大型化されていた。ボディサイズは全長×全幅×全高3300×1430×1200mm。全幅はプロトタイプ比135mmも広い。プロトタイプはS360との連携を考慮し、全幅を当時の軽自動車規格の1295mmに収めていた。が、生産型ではその縛りがなくなったからだ。サイズ変更はS500にとって重大な意味を持っていた。ホイールベースとトレッドの比率がスポーツカーにとって理想的な数値に近づき、ハンドリング性能の大幅向上をもたらしたのである。
室内スペースも大幅に余裕を増していた。全幅1295mmのプロトタイプでは、大柄なドライバーにはいささか窮屈だった。2シーター構成とはいえ、実質的には1シーターモデルに近かったのだ。それに対し市販版は大柄なパッセンジャー2名が乗っても快適な室内に仕上げられていた。ホンダSシリーズは、日本車で初めて世界に認められたクルマだが、その理由は圧倒的な高性能だけではなかった。巧みなパッケージングも後押しした。もしS500がプロトタイプと同じ軽自動車規格の全幅で登場していたら、これほどの国際的な評価を受けていたかどうかは疑わしい。いくら高性能車でも、窮屈な室内ではパフォーマンスをフルに引き出し、楽しむことは困難だからだ。
肝心の性能もリファインされていた。パワーユニットは排気量をプロトタイプの492ccからボア×ストロークが54×58mmの531ccに拡大。最高出力は40ps/8000rpmから、44ps/8000rpmにアップし、トルクも3.8kg・m/8000rpmから4.6kg・m/4500rpmに増強された。注目は4psのパワーアップ以上にトルク特性が変更されていたこと。プロトタイプは8000rpmという超回転で最大トルクを発生したが、市販型では発生回転数が4500rpmに低下。しかもトルク自体が21%も太くなっていた。市販版は日常域から力強さが実感できるセッティングとなり、運転のしやすさが大幅に増していた。しかも最高出力を発生する8000rpmまで、スムーズにしかも一気に吹き上がった。市販モデルのエンジンは、トルクフルでシャープな、一段とピュアなスポーツカーユニットに成長していたのである。
最大の特徴であるDOHCレイアウトは、そのまま踏襲。クランクシャフトはGPレーサーと同様のニードルローラーベアリングで支持する組立式で、キャブレターは各気筒1個のCVタイプを装備していた。
足回りはフロントがダブルウィッシュボーンと縦置きトーションバーの組み合わせ。リアはホンダ独創のデフをキャビン直後に固定し、後輪をチェーンで駆動する方式。チェーンドライブケースがトレーリングアーム兼ね、後端をコイルとダンパーユニットで支えていた。
スタイリングは、プロトタイプのイメージをそのまま踏襲する。このスタイルはホンダ社内デザイン。“赤が似合うスポーツカー”がコンセプトとされ、本田宗一郎のアイデアもふんだんに盛り込まれたという。自らMGやロータスと言ったスポーツカーを日常的に乗っていた宗一郎は、スポーツカーのスタイリングに一家言を持っていた。開発時、デザインスタッフが帰宅した後もクレイモデルをいじくりまわし、翌朝スタッフが出社したときにはデザインが変更されているのもたびたびだったという。初代Sシリーズの特徴であるロングノーズと、軽快な印象を強調するポイントになっているウェストラインがドア後方でキックアップするラインは、宗一郎のこだわりだと伝えられている。
S500の価格は、大方の予想を裏切る45万9000円。本格的スポーツカーとしては画期的な低価格だった。これでも当時の物価や給与水準を考えると相応の水準だったが、庶民でも頑張れば購入できる設定だった。本田宗一郎の夢は「製品を通じ、誰もが笑顔になること」。価格設定を含め、S500にはその精神が貫かれていた。