スズキの歴史2 第二期/1966-1977 【1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977】

軽自動車メーカーとしての発展

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スズライト・フロンテやバンの開発で、
軽自動車メーカーとしての確固たる地位を
築き始めた鈴木自工は、1960年代後半に入ると
小型車のマーケットにも進出する。
同時に軽自動車のラインアップもさらに強化。
排出ガス規制にも2ストロークで挑んだ。
■小型車の開発と挫折

 スズライト・シリーズの成功で自動車メーカーとしての道程を歩み始めた鈴木自工は、1960年代に入ると小型車の開発に着手し始める。1962年10月開催の第9回全日本自動車ショーでは試作車のHAXを発表。翌年の第10回ショーではフロンテ800の名でプロトタイプが披露される。鈴木自工初の小型車が市販デビューしたのは1965年の10月。車名はプロトと同様にフロンテ800を名乗り、2カ月後の12月から販売を開始した。

 フロンテ800は異彩なメカニズムで注目を集めた。エンジンはC10型785cc・直3の2サイクルで、ユニット自体を左に30度ほど傾けて縦置きする。潤滑は鈴木自工独自のセルミック式。駆動方式は同社の軽自動車と同様にFWDを採用した。イタリアンチックなノッチバックスタイル、4輪独立懸架の足回り、油圧式ダイヤフラム・スプリングのクラッチなども好評を博す。しかし、ライバルメーカーからの競合車の台頭などが災いして販売成績はそれほど奮わず、1969年開催の第16回東京モーターショーを最後に姿を消してしまう。その後の鈴木自工は、1983年9月デビューの初代カルタスまで小型乗用車をリリースしなかった。ちなみにジムニーには、4サイクルのF8A型797ccエンジンを搭載した仕様(ジムニー8、1977年10月デビュー)を設定している。

軽自動車のトップメーカーに躍進

 小型車では挫折した鈴木自工だが、軽自動車の分野では絶好調で、順調に販売成績を伸ばしていく。1967年4月には斬新なコークボトルデザインを採用したフロンテ360(LC10)を発表。駆動方式はFFからRRに改められ、ボディーもモノコック式に一新する。1968年11月にはスポーツモデルのSSを設定。0→400m加速を19.95秒で駆け抜け、軽自動車としては初めて20秒の大台を切った。

 軽自動車のラインアップはさらに拡大していく。1970年4月にLJ10型ジムニーの発売を開始。同年10月にはLC10がフルモデルチェンジして、フロンテ71(セブンティワン)に切り替わる。1971年5月には新開発の2サイクル3気筒水冷エンジンを搭載するフロンテ71Wが登場した。さらに同年9月にスペシャルティモデルのフロンテ・クーペがデビューし、若者層を中心に大人気を博す。72年に入ると軽商用車も新型に移行され、5月にLC50型キャリイ、8月にはLC50V型キャリイバンをリリースした。この時点で鈴木自工は、軽自動車販売台数のトップメーカーに君臨することになる。

■2サイクルエンジンへのこだわり

 1973年7月、フロンテが新型に切り替わり、水冷エンジンを改良して昭和48年排出ガス規制をクリアする。さらに1976年4月には昭和50年規制をクリアした対策車を発表。同年10月には新軽規格にマッチしたフロンテ7-Sを発売した。

 このころになると、2サイクルエンジンの存続を疑問視する声が大きくなり始める。各軽自動車メーカーは排ガス対策がしやすい4サイクルに続々と鞍替えしていった。一方の鈴木自工は2サイクルにこだわり、「どっこい生きている」のキャッチフレーズを掲げて排ガス対策に取り組む。そして1977年5月、最も厳しいといわれた昭和53年排出ガス規制を2ストロークエンジンで克服した。キーとなった技術は2段式の酸化触媒と2次吸気の供給システムだ。触媒はモノシリックタイプで、ハニカム状に孔が開いたセラミックの表面に触媒金属を付けていた。鈴木自工の技術陣がこのシステムを開発していなければ、4輪車の2サイクルエンジンはこの時点で消滅していただろう。

ちなみにこの時、鈴木自工は別の戦略も打ち出している。月1000台の枠内でライバル社のダイハツから4サイクルエンジンの供給を受け、フロンテ7-Sに搭載したのである。これで7-Sは、昭和53年排出ガス規制をクリアした2サイクルと4サイクルの2本立ての仕様となった。軽自動車販売台数No.1を維持し続けた背景には、こうした強かな戦略もあったのだ。