ロードペーサー 【1975,1976,1977,1978,1979】
ロータリーを搭載したフラッグシップサルーン
1975年3月17日、東洋工業(現マツダ)は同社の乗用車としては最も大型で高級な4ドアセダンのロードペーサーを発表した。エンジンはいうまでもなく2ローターのロータリーエンジンである。車名のロードペーサー(ROADPA CER)とは、「路上の覇者」を意味する。
ロードペーサーは、センチュリーやプレジデントに対抗し得るモデル。ロータリーエンジンの開発、量産化で世界のトップランナーとなったマツダの挑戦だった。しかし、当時のマツダには大型高級車を白紙から開発する技術的、経済的な余裕は無かった。そこで、他社が持つ既存のモデルにロータリーエンジンを搭載するという手法が採られた。これなら開発に要する技術も資金も大幅に節約できる。
白羽の矢が立てられたのは、日本と同じ左側通行でステアリング位置が右だったオーストラリアのGM系自動車メーカーのホールデン社が生産していたインターミディエートクラスの4ドアセダン、プレミアである。プレミアを部品の状態で輸入し、マツダがロータリーエンジンの搭載や日本の法規にあわせて改良を施し、完成車として販売しようと言うのだ。通常のモデル開発と異なる、かなり変則的な開発手法であるが、開発に要する時間は半減されたという。ちなみにマツダがホールデン社と交渉をスタートさせたのは1973年4月だった。
ロードペーサーは日本で初めて日本版マスキー法とも言うべき昭和50年排出ガス規制をクリアーした3ナンバーの大型サルーンだった。とはいえロードペーサーを発表した1975年3月の翌月には日産が50年規制に対応させたプレジデント(日産初の50年規制対応車でもあった)を発表したから、日本初の座は変わらないものの、唯一のクリーンエンジン搭載大型サルーンと名乗れた期間はごく僅かだった。
ロードペーサーが搭載した13B型ロータリーは、基本的にルーチェGT用と共通だったが、吸排気ポートタイミングの修正、サーマルリアクターの容量アップ、キャブレターのパワーバルブ追加などのリファインを加えていた。大型サルーンのロードペーサーにあわせて中低速トルクを太らせていたのだ。135ps/6000rpm、19.0kg・m/4000rpmのスペックは、ルーチェ用と比較すると135psの同一出力を500rpm低い回転数で発生、最大トルクは0.7kg・m太かった。
ロードペーサーの60km/h定地走行燃費は8.5km/L。4414ccのV8ユニットを積むプレジデントの9.6km/Lより悪かった。その後ロードペーサーは51年排出ガス規制対応のタイミングで燃費を改善するが、それでも良好なレベルとは言えなかった。
全長4850mm×全幅1885mm×全高1465mmの堂々たる体躯を誇るロードペーサーは日本では紛れもなく高級サルーンだった。しかしオリジナルのホールデン・プレミアは高級車として開発されたモデルではなかった。プレミアはもともと大衆車として開発されたGMシボレー・ノバの豪州版で、伸び伸びとしたサイズの持ち主ではあったが本質は大衆車だったのだ。
内装デザインはあっさりとしており、各部の静粛性対策もそれなりだった。ボディサイズの割に室内スペース(とくに後席回り)も広くなかった。ロードペーサー開発にあたりマツダのスタッフは高級車に生まれ変わらせるべく可能な限りの努力を払う。しかしそれには限度があった。ライバルのプレジデントやセンチュリーと比較するとチープな印象は否めず、セドリックやクラウンとの比較でも優位点は少なかった。
既存の他社製大型車のボディに自社製のロータリーエンジンを組み合わせ、コスト削減を図るというマツダが企画した初期の目的は十分に達せられたのだったが、価格が371万円から386万5000円と高価であったため、販売は思うように伸びず、1975年が491台、1976年が183台、1977年126台の合計800台で生産を終了する。
販売が低調だったのは大型ボディに対して13B型ロータリーが非力だったこととともに、クルマとしての基本構成が高級サルーンとしては未成熟だったことが大きく影響していた。結果としてロードペーサーはロータリーエンジンの可能性を示しただけに留まった。
マツダは1979年にアメリカ・フォード社と資本提携を締結して事実上その傘下に入る。ロードペーサーは車種整理の対象となり、その短い生涯を終えた。