ジェミニZZ 【1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988】

“DOHCクライマックス”を謳った高性能スパルタンスポーツ

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米国GMとの資本提携

 1970年11月、いすゞ自動車は自社に関する重大な決定を公表する。アメリカのゼネラル・モーターズ(GM)と全面的に業務提携に入ることをアナウンスしたのだ。当時はアメリカから日本の自動車メーカーに対する資本参加の自由化が求められていた。会社の経営を安定化したい日本の中堅メーカーは、この要求を好機と捉えて鋭意提携交渉に乗り出す。1969年5月には三菱重工業の自動車部門とクライスラーが、少し遅れて1979年11月にはマツダとフォードが資本提携を締結する。いすゞとGMの提携が合意に達し、基本協定書に調印したのは、1971年7月のことだった。

 かつてトヨタ、日産とともに日本自動車メーカーの御三家といわれたいすゞが資本提携をするまでに窮地に立たされたのには、それなりの理由がある。会社の体制やメインバンクの方針なども要因だが、クルマ本体にも問題があった。当時のスタッフによると「トラックはよかったが、乗用車に関してはヨーロッパに向きすぎていた感がある」という。1950~60年代の日本はアメリカに対する憧れが強く、クルマという商品もその流れのなかにあった。これをくみ取ったトヨタや日産は、アメリカ車を規範にしたモデルを次々と開発する。一方、いすゞは欧州車に範をとった。玄人受けは絶大だが、販売台数は大きく伸びない。さらに、大衆向けの1リッタークラス車の開発にも消極的だった。結局こうしたファクターが重なり、いすゞの衰退を招いたわけだ。

世界戦略の共同開発車が「ジェミニ」の車名で登場

 いすゞとGMの提携は、具体的な形となって日本の自動車市場で披露される。1974年10月(発売は同年11月)、共同開発車となる「ベレット・ジェミニ」(PF型。1975年4月には「ジェミニ」の単独ネームに変更)が市場デビューしたのだ。ボディタイプは4ドアセダンと2ドアクーペの2タイプ。エンジンはクロスフロー化した改良版のG161型1584cc直列4気筒OHCユニット(100ps)を搭載する。駆動レイアウトはオーソドックスなFR(フロントエンジン・リアドライブ)で仕立てていた。

 ジェミニの兄弟車はGMグループ内のワールドカー構想の一環である“Tカー”戦略として拡大展開された。西ドイツでは「オペル・カデット」、アメリカでは「シボレー・シェベット」や「ポンティアックT1000」、カナダでは「シボレー・シェベット」や「ポンティアック・アカディアン」、オーストラリアではジェミニの輸出仕様となる「GMホールデン・ジェミニ」、英国では「ヴォクスホール・シェベット」、ブラジルでは「シボレー・シェベット」、アルゼンチンでは「オペルK-180」、コロンビアやエクアドルでは「シボレー・サンレモ」、ニュージーランドでは「ヴォクスホール・シェベット」などのネーミングでリリースされた。各車はエンジンなどは一部異なるものの、基本ボディ&足回りを共通化した兄弟車だった。

いすゞ独自の高性能版ジェミニの開発

 良くも悪くもGMの戦略が色濃く反映されたPF型系ジェミニ。販売は比較的順調に推移した。一方でいすゞ社内では、危惧を抱くスタッフも多かった。このままでは、せっかく築いてきたいすゞの独自性が失われてしまう……。当時のいすゞの現場では、117クーペやベレットGTといった名スポーツモデルを創出した技術者が、そしてスポーツモデルに憧れて入社した若者が、一堂に会していた。ベレGのようないすゞらしい純スポーツモデルを、もう1度自分たちの手で生み出そう――。意を決した開発陣は、ジェミニにオリジナルの高性能バージョンを設定することを計画する。

 搭載エンジンに関しては、117クーペに採用していたG180型1817cc直列4気筒DOHCをベースに、各部のファインチューニングを行う方針を打ち出す。出力特性に関しては、全域での厚くフラットな過渡トルク、さらに高回転域でのパンチ力を有する旨を決定。そのために開発陣は、エンジンの軽量化やクロスフロー方式の見直し、専用セッティングのECGI(電子制御燃料噴射装置)の組み込みなどを行い、フレキシブルで力強いエンジン特性を具現化した。パワー&トルクは130ps/6400rpm、16.5kg・m/5000rpmを発生する。また、開発陣はエンジンの見た目も重視し、ヘッドカバーには専用の青塗装と“DOHC”“ISUZU”のロゴを施した。

すべてを豪快な走りのために調律!

 いすゞオリジナルのスポーツ・ジェミニは、エンジン以外もすべてが走りのために調律されていた。組み合わせるトランスミッションにはスプリントレシオ(加速重視:1速3.507/2速2.175/3速1.418/4速1.000/5速0.855/後退3.759/最終減速比3.909)とGTレシオ(巡航性能重視:1速3.207/2速1.989/3速1.356/4速1.000/5速0.855/後退3.438/最終減速比3.909)の5速MTを用意。クラッチディスクには大口径Φ215mmタイプを装備する。リミテッドスリップデフやオイルクーラーといったスポーツ走行に欠かせないアイテムも豊富に設定した。

 シャシーについては、前ダブルウィッシュボーン/後トルクチューブ付3リンクのサスペンションの強化や175/70R13タイヤ(最強バージョンはADVANの175/70HR13)の装着を実施。ブレーキには前後ディスクを採用する。ボディタイプは4ドアセダンと2ドアクーペの2タイプを用意し、外寸は全長4235×全幅1570×全高1340(クーペ)~1365(セダン)mm/ホイールベース2405mmに設定。装備面では、ハイバックシートや補助メーター(油圧/時計/電圧)、専用ロゴ入り3本スポークステアリング、アウトレットグリル(ボンネット左右)などを盛り込んだ。

「ZZ」のグレード名を冠してデビュー

 専用チューニングのG180“ブルーヘッド”エンジンを搭載したPF60型ジェミニは、「ZZ(ダブルジー)」のグレード名を付けて1979年10月に発表、11月に発売される。キャッチフレーズは“DOHCクライマックス”。グレード展開はセダンとクーペともに上級仕様のZZ/Tと快適装備を省いて軽量化したZZ/Rをラインアップし、ZZ/Tにはツーリングパック(Φ12mmリアスタビライザー/オイル強化型ショックアブソーバー/ホイールレート1.6フロントコイルスプリング)、ZZ/Rにはハードドライブパック(Φ14mmリアスタビライザー/ガス封入強化型ショックアブソーバー/ホイールレート1.8フロントコイルスプリング)の足回り(いずれのパックもフロントスタビライザーはΦ23mm)を採用した。

 DOHCエンジンらしからぬ低中速域の扱いやすさに高回転域でのパワフルさ、ハードな足回りとFRレイアウトならではの高い運動性能、さらに2系統のギアレシオ(標準のスプリントレシオと注文装備のGTレシオ)などを特徴としたZZのパフォーマンスは、たちまち走り好きを虜にする。また、全日本ラリー選手権でも大活躍し、1980年には金子繁夫選手が、1981年には山内伸弥選手が、ジェミニZZを駆ってシリーズチャンピオンに輝いた。

着実な改良で完成度と魅力度をアップ

 自動車雑誌では「ベレGの再来」「スパルタンないすゞ車の復活」などと謳われ、独自の存在感を放ったジェミニZZは、いすゞ車の伝統で、デビュー後も着実な改良を実施してポテンシャルを高めていく。
 1980年3月には、ZZシリーズの最上級グレードとなるZZ/Lを追加。専用アレンジのツートンボディカラーにシート表地、赤のピンストライプなどを配して個性を主張する。1981年10月にはマイナーチェンジを図り、異形角型ハロゲンヘッドランプの採用や内装デザインの変更などを行う。また、キャッチフレーズには“DOHCロマン”を謳った。さらに、1982年10月と1983年10月にも一部仕様変更を敢行した。

 1985年3月になるとZZ/Rのマイナーチェンジを行い、ピストンやピストンピン、コンロッドなどの工作精度をより高めたG180型系ユニットを採用する。ヘッドカバーにブラック塗装を施した通称“ブラックヘッド”エンジンは、熟練者の手によって徹底管理されたうえで組み上げられ、デビュー時には“ソウルフルDOHC”というキャッチが冠せられた。ほかにもトランスミッションのセッティングの見直しやポリカーボネート樹脂製軽量バンパーおよびエアダムフロントパネルの設定、本革巻きステアリングの装着なども実施された。

 ブラックヘッドエンジンのZZ/Rが登場してから2カ月ほどが経過した1985年5月、駆動レイアウトをFFに切り替えた第2世代のFFジェミニ(JT150型)が登場する。ただし、FFジェミニはボディサイズやエンジン排気量をダウンサイジングし、スポーツモデルも未設定だった(FFジェミニのスポーツモデルである「イルムシャー」は1986年5月に発表)。そのためPF型系のセダンモデル、さらにはZZ/Rも併売され、マニアックな人気を博し続けた。そして、1987年2月にはついに生産を終了し、以後は在庫分のみの販売となった。
 いすゞ開発陣の意地と誇りが凝縮された初代ジェミニのZZシリーズ。その名車の姿はいすゞ・ファン、そして1980年代のスポーツモデル好きの心に深く刻まれた。