トヨタWRC1 【1970〜1979】
高性能をアピールする場としてラリーを選択
トヨタのWRC(世界ラリー選手権)への本格チャレンジは、1970年にスタートする。日本でも人気の高い伝統のイベント「モンテカルロ・ラリー」に2台のコロナ・マークIIGSSで挑戦したのだ。エンジン出力を170psにチューンアップしたマークIIGSSをドライブしたのは、ポルシェのワークスドライバーとして活躍したビック・エルフォード選手と、ヤン・ヘッテマ選手の二人。だがマークIIGSSは、善戦したもののクラッチトラブルにより惜しくもリタイアしてしまう。その後、トヨタがWRCの舞台に登場するのは1972年のRACラリーである。2年間という歳月は、本格的なラリー挑戦のための準備期間に充てられた。
1972年からのWRC参戦は、1970年のマークIIGSSでの挑戦とは意味合いが異なっていた。1970年のモンテカルロ・ラリーは、主に日本市場でのイメージアップが目的だった。すでに欧州でのトヨタ車の販売はスタートしていたものの、まだまだ販売ボリュームが少なく、欧州での積極的なアピールは考えていなかったからだ。しかし1972年になると状況が変わる。主力モデルのカローラに加え、スポーティなセリカが販売車種にプラスされ、トヨタ車の人気は欧州でも日増しに高まっていた。欧州市場でさらに販売を伸ばすには、パフォーマンスの高さを実証することが必要だった。そこでトヨタが選んだのがWRC参戦である。市販車をベースにしたマシンで戦うWRCで好成績を収めれば、トヨタ車の優秀性をストレートに示せる。トヨタはそう判断した。欧州ではWRCの人気が非常に高く、アピール力は絶大だった。
トヨタは1972年からのWRC参戦に向けて、強力なパートナーを得る。オベ・アンダーソン選手である。オベ・アンダーソンは1971年のWRCでモンテカルロ、サンレモ、オーストリアン・アルパイン、そしてアクロポリスの4大ラリーを制した強者。ドライバーとしてのスキルが高いだけでなく、マネージメント能力にも優れた逸材だった。彼は後にTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)の基礎を築き監督に就任する。
参戦マシンにはセリカが選ばれた。1972年はまずRACラリーに挑戦する。トヨタ・チームはラリー前にアンダーソン選手を日本に招き、テストコースでの入念なトレーニングを実施、ラリー前にもテスト走行を行いマシンの熟成を図った。ラリーでは緒戦にも関わらず善戦、総合9位でフィニッシュする。フォード・エスコートやランチア・フルビア、サーブ96などの競合ひしめく中での9位は価値あるものだった。
1973年は4戦に出場。オーストリアン・アルパインで7位、最終RACラリーでは12位に食い込む。マシンの熟成も徐々に進み、上位が狙える体勢が整いつつあった。しかし、ここでオイルショックが襲う。
オイルショックが与えた影響は甚大だった。多くのメーカーがモータースポーツからの撤退を表明。トヨタも国内のレース活動を含め、すべてのモータースポーツ活動の休止を決定する。もちろん欧州でのWRC挑戦も、この中に含まれた。だが、ラリー活動は関係者の尽力で、マシンやサービスカーなどをすべてアンダーソン選手に託し「チーム・アンダーソン」として活動することで、なんとか生き延びる。ちなみに、このチーム・アンダーソンが、1975年に発足するTTEの基礎となった。
1974年はセリカとカローラ・レビンを加えた新体制で参戦。レビンがTAPラリーで4位、RACラリーでも4位に食い込んだ。RACラリーからは185psにパワーアップした1.6リッター16バルブ仕様のスペシャルエンジンが搭載され、マシンのポテンシャルはさらに高まった。
レビンを主力マシンに据えた1975年は、トヨタにとって躍進の年だった。ノルドランド・ラリーでアンダーソン選手が優勝。ポルトガル・ラリーでは3位に食い込む。さらに1000湖ラリーでは新進気鋭のハンヌ・ミッコラ選手が見事にWRC初優勝を飾る。1000湖ラリーでのレビンの優勝は、ヨーロッパ・ラウンドでの日本車初優勝であり、トヨタ車の優秀性を大いにアピールした。
1976年には、レース用に開発した2リッターの16バルブ仕様の18R-G改型エンジンを搭載したセリカに主力マシンをスイッチ。ポルトガル・ラリーから参戦を開始する。エンジンのチューニングはドイツのシュニッツァー社が担当し、最高出力は240psオーバーを誇った。
パワフルなエンジンの効果は絶大で、デビュー戦となったポルトガル・ラリーで2位を獲得。18R-G改エンジンの最終戦となった1977年のRACラリーでも2位に食い込んだ。
1978年の1000湖ラリーから、2代目のセリカが登場。ただし18R-G改エンジンはホモロゲーション切れのため搭載できず、非力な8バルブ仕様の18R-G型エンジンで戦わなくてはならなかった。このため好成績は望めず、1979年ポルトガル・ラリーでの3位フィニッシュが最上位だった。