いすゞユニキャブ 【1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974】
ワイルドなスタイル。いすゞ製RVの先駆
秋の東京モーターショーでは、
各自動車メーカーから800〜1100ccクラスの
渾身の大衆乗用車が多数発表される。
そんな最中、いすゞ自動車のブースでは
風変わりな多用途車が雛壇に上がっていた――。
後に「いざなぎ景気」と呼ばれる好況で賑わいを見せていた日本の自動車業界。道路網の整備とともに800〜1000ccクラスの大衆乗用車も売れはじめ、世の中はクルマ社会=モータリゼーションが進展しつつあった。
そんな最中、いすゞ自動車は「モータリゼーションが進み、道路網がもっと広がれば、ユーザーは多用途車を望むようになる」と予想する。しかし、当時は一家に一台がやっとの時代。レジャー用に特化したクルマを造っても売れるはずはなく、業務までもこなせるモデルが求められた。事実、ライバルメーカーの三菱ジープやトヨタ・ランドクルーザー、日産パトロールなどはそれなりに着実な販売成績を残していた。
レジャーから仕事までをこなす多用途車は、やはりジープ・タイプのスタイルがいい−。いすゞ自動車のスタッフは早速、提携先のプレス工業とタッグを組み、共同で多用途車の開発に着手する。
新しい多用途車の開発に当たってベースのシャシーに選ばれたのは、同社のボンネット型ライトトラックのワスプだった。開発陣は機動性を確保するためにワスプのホイールベースを400mmほど短縮し、その上に独自デザインのジープ型ボディを被せる。エンジンはワスプやベレットに搭載していたG130型1.3L直4OHV+フルシンクロ4速MTを流用した。駆動方式は4WDではなく、ワスプと同様の後輪駆動に設定する。ユーザーの使用パターンやコスト削減などを踏まえたうえでの、開発陣の決断だった。
いすゞの新しい多用途車は、1966年10月に開催された第13回東京モーターショーで初披露される。このときの扱いは、どちらかというと脇役。いすゞブースのいちばん目立つ場所に飾られたのは、“いすゞ117”を名乗るスポーツ(後の117クーペ)とサルーン(後のフローリアン)だった。
いすゞ初の多用途車は1967年7月から市販に移される。車名はユニキャブ。いすゞらしいスタイリッシュなデザインは多用途車でも健在で、着脱式の幌や可倒式フロント・ウィンドウシールド(保安基準の改正で後に固定式に変更)などがジープをイメージさせたものの、端正なフロントマスクや車高の低さなどが独自の個性を醸し出していた。49.5万円〜という、この種の多用途車としては異例に安い価格設定もユーザーの注目を集める。
ユニキャブは当初の目的通り、業務から個人レジャーの足として活躍するようになる。その状況を、当時のいすゞスタッフはこう語る。
「ユニキャブはユーザーから“低価格のオープントラック”として捉えられていました。後輪駆動だったので、本格的なクロカン走行は出来ませんしね。ある意味、一般道路の走行を重視した初の国産レジャービークルといえるのではないでしょうか」
ユニキャブは68年に対面対座6名掛けシートをリアボディに装着した8人乗り仕様を設定し、クルマとしての利便性をいっそう向上させる。エンジン排気量も68年に1.5L、73年には1.6Lにまで拡大した。
地道な人気を獲得したユニキャブは、ベース車のワスプがカタログ落ちしてファスターに移行した後も販売が継続され、74年にその役割を終えることとなる。しかし、ライトトラックで多用途車=レジャービークルを造るという技術的ノウハウはいすゞの開発体制にしっかりと根づき、後のファスター・ロデオやビッグホーンといった国産SUVの先駆モデルに生かされていったのである。