サニー1000クーペ 【1968,1969,1970】

小粋なフルファストバック・スペシャルティ

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鮮烈なフルファストバック造形!

 サニー・クーペは、1968年3月、2ドアセダン、バン、トラック、4ドアセダンに続く第5のボディタイプとして登場した。抜群にお洒落なスタイリングと、軽やかな走行性能、そしてライバルにないユーティリティでマニアの注目を集めたスペシャルモデルである。

 サニー・クーペの個性は、なんといってもファストバックの大胆なスタイリングにあった。ルーフからリアエンドまでシャープな直線で結んだボディラインは躍動感たっぷり。デビュー当時のカタログには「日本で初めての魅力あふれる本格的なファストバック・ルックです。胸の高鳴るハンサムなクーペ。お乗りになったその時から、あなたの人生がドラマティックにスタートします。」というコピーが踊り、特別なクルマであることを宣言していた。確かにサニー・クーペはスピード感を感じさせた。ノーズ回りこそセダンの面影を残していたが、従来の日本車では味わえなかった小粋な印象で若者の心を鷲づかみにしたのだ。

モーターシーンを変えた“小さな大物”

 ところで、サニー1000は、真の意味での日本の“大衆車”となったエポックカーだった。モーターシーンを変えた“小さな大物”といっていい。日本のモータリーゼーションは1966年4月のサニーの発表を契機に本格的なものになる。しかしサニーはこのクラスのパイオニアではなかった。1966年当時すでにマツダのファミリア、トヨタのパブリカをはじめ800cc~1000ccクラスのモデルは多数発売されていた。とはいえ、それらは大衆の心をばっちりと掴むほどのインパクトは持っていなかった。どのクルマも設計思想が中型モデルのコロナやブルーバードの小型版といったところで、独自の個性や魅力が薄かったからだ。コンパクトカーはコンパクトさを武器にした“斬新な設計思想”が新しさと魅力を生み出す。それはクラシック・ミニや、日本のスバル360など、幾多のコンパクトカーの名作が証明していた。

 サニー1000は、“軽量設計”でコンパクトカーならではの魅力を表現した。軽さは動力性能面で大きなメリットを生み出し、経済性の面でもアドバンテージになる。しかもコストの面でもプラスだ。得るものは多く失うものはない。

軽さがもたらすメリットを追求

 軽量化のための取り組みは本格的だった。新たにボディの一体プレス成形システムを開発。しっかりとした剛性を確保したうえで余分な補強材を減らすことに成功する。外板も構造上で許される部分についてはできる限り薄い鋼板を使用して軽量化に務めた。

 エンジンも軽量化を追求した新設計である。材質は伝統的な鉄製だったが、水、オイルを含んでの重量は僅か91.5kgにすぎなかった。排気量は当初800ccも検討されたが、将来を見通して1000ccに決定。73mmに設定したボア径は、日産がダットサン時代から、さらにはオースチンのノックダウン時代からずっと使っていたボア径と共通だった。このため従来からのエンジン生産設備の流用が可能となりコストの低減と新開発ながら性能の安定化がもたらされた。サニーから導入されたこのA型ユニットは、レーシングシーンでも大活躍し、名機として、その後の日産のコンパクトエンジンの主役として活躍することになる。

 さまざまな努力の結果、完成したサニー1000の車両重量は625kg(DXは645kg)。現在の軽自動車の平均を約200kgも下回る超軽量を実現した。同じ1000ccでデビューした初代ブルーバード310(1959年登場)の860kgと比較すると30%近い軽量化を実現したことになる。
 驚きだったのがパフォーマンスである。軽量ボディと56psエンジンとの組み合わせはクラスを超えた俊敏な走りを実現した。トップスピードは135km/hに楽々と達し、ゼロヨン加速も20秒を確実に切った。ハンドリングも軽快そのもの。スポーティなフットワークは兄貴分のブルーバードを凌ぐほどだった。すでに名神高速が開通し、東名高速など高速道路ネットワークの充実が急ピッチで進んでいた時代のなかでも、サニーの走りは光っていた。

大衆の心を掴んだマーケティング

 サニーはマーケティング手法でも時代をリードした。正式発表に先立つ1966年元旦に車名を公募する広告を掲載。大々的な車名公募キャンペーンを展開したのだ。命名者への懸賞は新型車と賞金50万円。懸賞がBIGだったこともあるが、キャンペーンはユーザー層の気持ちを的確に捉え、1月末日の締め切りまでに848万3105通もの応募を集めた。同時にターゲット・ユーザーへの認知・関心を高めることに成功する。当初はシルエットのイラストでスタートし、しだいに新車の詳細を紹介する手法により、まったくのブランニューモデルながら、4月のデビュー時には誰もが知っている期待の“大衆車”になっていた。このような本格的な“ティーザーキャンペーン”は日本ではサニーが最初だった。ちなみにサニーというネーミングは、一番応募の多かったネーミングではなく、審査委員会が最適と判断した結果だった。応募ではフレンドやポニーというネーミングのほうが上位を占めていたらしい。

 スタンダードで41万円、デラックスが46万円で発売されたサニー1000は、メーカーの予想を超える好評なセールスをマークした。発売後5ヶ月で3万台を超える販売を記録し、12月には早くも月間販売台数が1万台の大台を超えた。大衆車の市場規模は1967年から1969年への2年間で2倍以上に拡大するが、その起爆剤となったのはサニーだった。

魅力的だったクーペ専用造形

 市場の拡大は、ユーザーニーズの多様化をもたらす。サニー1000はその声に応えるために進化を続けた。1966年10月にはボディカラーを4色から7色に増やし、1967年4月に4ドアボディを追加。同時に一段と走りに優れた4速フロアシフト車とオートマチック車を設定する。1968年には斬新なフルファストバック形状のクーペを加え、サニー・シリーズと呼ぶに相応しいラインアップに成長した。

 クーペの魅力はスタイリングにあった。リアエンドはもちろんだが、ほとんどのボディパーツは専用品だった。Aピラーはファストバックと呼応するように一段と寝かされ、前後のバンパー位置も見直されている。ノーズを低く見せるため、フロントバンパーはグリルのすぐ下にレイアウトされた。ボディサイドに細いピンストライプを配したのも特徴で、砲弾型となったサイドマーカーランプと相まって、シャープな印象を訴求した。サニー・クーペは単純にルーフ形状を変更した“お手軽デザイン”ではなかった。軽快な印象をイメージさせる “スペシャルティデザイン”でまとめていた。

 特別だったのは室内も同じである。メーターパネルはクーペ専用形状。セダンは一部鉄板剥きだしの合理的な仕様だったが、クーペは完全フルトリム。高級でしかもスポーティな造形でまとめていた。メーターは3連丸形形状で回転計の組み込みが可能だった。4速フロアシフトのトランスミッションと相まって、“コクピット”という表現が似合った。シートも特別デザイン。左右ともにフルリクライニング機能を備えたセミバケット形状で、シート生地はビニールレザーと、お洒落な千鳥格子のファブリックから選べた。

ユーティリティの高さもクーペの個性

 後席にはアイデアが盛り込まれた。後席シートバックに前倒し機構をプラス、ラゲッジスペースを拡大することが可能だったのだ。サニー・クーペが登場した1968年頃は若者の遊びの領域が拡がっていた時期だった。スキューバダイビングやスキー、サーフィンなど、嵩張るアイテムを利用しての新しい遊びが注目を集めていた。サニー・クーペならそんな新しい遊びのアイテムをスマートにラゲッジルームに収めることができた。荷物の出し入れは基本的に通常のトランクリッドから行うタイプだったため、荷物は積み卸しには工夫が必要だったが、スタイリッシュなクルマで、最新流行の遊びに出掛ける喜びは特別だった。

 ただしカタログ面での走りのアピールはそれほどでもなかった。パワーユニットはシングルキャブ仕様のA10型・988cc。細部の見直しでセダンより4psパワフルな60ps/6000rpm、8.2kg・m/4000rpmのスペックを誇ったが、数値自体は驚くほどのレベルではなかった。ブレーキも前後ともドラム方式(前ツーリーディング、後リーディングトレーリング式)にとどまった。実際の走りは車重が675kgと軽く、ボディサイズも全長3770mm、全幅1445mm、全高1310mmとコンパクトだったことで、クラス水準を大幅に抜いていた。ライトウェイトスポーツという形容が似合った。しかしカタログには、ライバル各車のようにツインキャブや、ディスクブレーキという文字はなかった。この点だけはライバルに見劣りした。ちょっぴり残念なポイントだった。