パブリカ 【1961】
実用性と高性能を兼備した「大衆車」の誕生
お披露目となった新型車には、まだ名はなく
「トヨタ大衆車」として発表された。
6年の歳月を費やして生まれた、このUP10型は、
「これ以下ではムリ、これ以上はムダ」
というコピーが示すとおり、
質実剛健かつシンプルなベーシックカーとして誕生する。
トヨタが1961年6月に発売した「PUBLICA(パブリカ)」のネーミングが、一般公募で決定され、大衆を意味するPublicとクルマを意味するCarの合成語であったことはあまり知られていない。一般公募による車名の決定は、トヨタが得意としていた手法で、今日では販売店の名に残るだけとなった「トヨペット」の名も、第二次世界大戦終結後の1947年に、SA型小型車の発売に伴って、8月に始まった一般公募で決定されたものだ。「トヨタ」と言う自動車メーカー名と「ペット(愛玩物)」を組み合わせたもの。何ともイージーなものだが、当時としては新鮮なネーミングだった。
パブリカが開発されるきっかけとなったのは、1955年に当時の通商産業省が発表した「国民車育成要綱案」だった。そのころ、第二次世界大戦の敗戦による混乱から漸く立ち直りかけていた日本では、一部に国産の自動車を開発しようと言う機運はあったものの、工業技術の立ち遅れはひどく、自動車産業もその例外ではなかった。
政府や経済界の中にも、自動車産業の育成よりも、他の基幹産業の育成に力を入れるべきだという声が起こっていたほどだった。「乗用車などは外国からの輸入で間に合わせれば良い……」などと言う、乱暴きわまる意見がまかり通っていたのだ。そんな中で、日本の自動車産業を基礎的な部分から立て直すことを目的に発表されたのが「国民車育成要綱案」(国民車構想)だった。
当時のお役人の中にも、クルマ好きな人はいたと見える。それは、エンジン排気量が500cc以下であること。4人の大人が乗って最高速度100km/h以上で走ることが可能であること。販売価格は30万円以下であること。など、きわめて理想的ではあるものの、当時の自動車技術ではおよそ実現不可能な事柄が並べられていた。多くの自動車メーカーからは、絵空事として無視されてしまったのだが、中には好機到来とばかりに、安価な小型車の開発を本格化させるメーカーもあった。
それが後にスバル360を生む富士重工(現SUBARU)であり、三菱500を生む三菱自動車(当時は新三菱重工)であった。トヨタ自動車では、「国民車構想」が発表される以前から小型車の開発に着手していたが、国民車構想の発表でそのプロジェクトはさらに本格化することになった。1954年には何台かの試作車が完成していたと言う。
1956年9月に、トヨタは試作中の小型車を公開した。「トヨタ試作大衆車」の名で発表されたこのモデルは、空冷水平対向2気筒エンジンを備えた前輪駆動車で、シャシーや駆動系の設計は、多くをフランスのシトロエン2CVに範を採ったものだった。ボディサイズは全長3650mm、全幅1420mm、全高1400mm、ホイールベース2100mm、車両重量580kgとなっており、後にパブリカとなったモデルにきわめて近い。また、この試作大衆車とは別に、トヨタ傘下にあった関東自動車工業が独自に開発したSXと呼ばれるフロントエンジン、後輪駆動の小型車もあった。2台が作られてトヨタに納められたと言う。後のパブリカは、この2種のモデルを巧みに折衷したものと言える。
1960年10月に開催された第7回東京モーターショーに、トヨタは「トヨタ大衆車」と名付けられた小型試作車を発表した。排気量697ccの空冷水平対向2気筒OHVエンジンをフロントに置き、4速トランスミッションを介して後輪を駆動する。トヨタらしく手堅くまとめられたスタイリングは2ドアセダンとしての合理性に富むものだった。「トヨタ大衆車」は、翌1961年6月から「パブリカ」(UP10)の名を冠して販売が開始された。価格は38万9000円であった。言うなれば、この「パブリカ」こそが、「国民車育成要綱案」に対するトヨタの回答であったわけだ。
おそらく、当時世界的に見てもきわめて完成度が高く、実用的な小型車としても高性能車であった「パブリカ」は、しかしメーカーの期待したほどの販売台数には至らなかった。それは、当時税金や駐車スペース確保の義務などがなく、維持費が安価でしかも高性能な軽自動車が多く出回っており、価格的にも軽自動車より数万円しか高くない(当時としては大きな差額であったが)「パブリカ」のような中間排気量のクルマが、販売的に苦戦するのは当然だったのである。
また、「パブリカ」がコストダウンを意識するあまりに、合理性の追求から無駄な飾り物を廃し、シンプルに徹したことも、当時の日本のモータリゼーションの高級志向とは相容れない部分となっていた。その後、クロームの飾りを増やし、エンジンをわずかにパワーアップしたモデルが販売台数を伸ばしたことからもそれは伺われる。「パブリカ」は、純粋かつ孤高の存在であり過ぎたがために、多くのユーザーに理解され難かったのだ。