昭和とクルマ01 【1930〜1945】
日産とトヨタが主導した乗用車の原点
戦前の日本の自動車産業は、物資輸送用のトラックなどが中心となって展開される。一方、戦時体制を除いては乗用車の開発も積極的に行われた。
エポックとなるモデルを見ていこう。まず国産自動車第1号といわれているのが、1907年に東京自動車製作所が製造した「国産吉田式」だ。同製作所を主宰する吉田真太郎氏が1902年に渡米した際、ガソリンエンジンやトランスミッションなどの自動車部品を購入して帰国し、それを基にダラック号を手本とした幌型の第1号車を完成させる。国産吉田式はガタクリと走ることから「タクリー号」というネーミングがつき、都合10台あまりが生み出された。
明治から大正にかけては、宮田製作所の「旭号」(1910年)や快進社の「ダット号」(1914年)、白楊社の「アレス号」(1921年)と「オートモ号」(1924年)、実用自動車製造の「ゴーハム号」(1921年)と「リラー号」(1923年)、太田自動車製作所の「オオタOS」(1923年)といった乗用車が開発される。一方、1925年には米国のフォード自動車が「日本フォード自動車」を横浜に設立し、フォードT型の生産を開始。さらに、昭和に入った1927年にはGMが「日本GM」を大阪に設立してシボレー車の組立を始めた。
昭和が進むと、快進社の流れを汲むダット自動車製造が開発した「ダットソン」が完成度を高めていき、1932年に名称を「ダットサン」に変更したころにはセダンやロードスター、フェートン、クーペといった多様なボディタイプが生み出されるようになる。これに目をつけたのが、巨大コンツェルンに成長しつつあった日本産業を率いる鮎川義介氏だった。鮎川氏は戸畑鋳物自動車部を通して1933年にダットサンの製造権を譲り受け、同時にダットサンを大量生産するための新会社、自動車製造を設立する。同社は1934年になると、社名を日産自動車に改称した。
現存する最古のダットサンは、レストアされた1932年製造の11型フェートンだ。ボディサイズは全長が2710mm、全幅が1175mm、ホイールベースが1880mm。搭載エンジンは747cc直4SVで、12ps/3000rpmの最高出力を発生した。当時のダットサンは、国産車としては完成度が高くて車両価格も外国車に比べて安め、さらに警察に赴いて許可証さえもらえば免許がなくても運転できる(750cc以下の自動車は免許が不要だった)という特性が好評を博し、需要が増大。当時の日本における“小型乗用車の代名詞”とまで謳われるようになった。
昭和初期には、大量生産のダットサン以外にも様々な乗用車が生み出される。なかでも注目を集めたのが、「オオタOD」(1937年)と「トヨダAA」(1936年)だった。
オオタOD(ロードスター/セダン/フェートン/カブリオレを設定)は、太田自動車が三井物産の資本を得て高速機関工業となってから発売した乗用モデルで、ダットサンよりも上級なメカニズムと個性的な外装で注目を集める。また、レースカーに仕立てたオオタ号は1936年開催の全日本自動車競走大会においてダットサンや外国車勢を打ち破り、見事に勝利を成し遂げた。
トヨダAAは、トヨタ自動車工業の前身である豊田自動織機自動車部が開発した最初の生産型乗用車(試作モデルのA1の発展型)で、いわばトヨタ製乗用車の元祖といっていい1台だ。ボディサイズは全長が4785mm、全幅が1730mm、ホイールベースが2850mm。エンジンはA型3389cc直6OHV(65ps/3000rpm)を搭載し、最高速度は100km/hと公表された。当時の国産乗用車としては異例に国産部品を多用し、まさに開発目標どおりの“日本人の頭と腕で造った国産乗用車”に仕上がっていたトヨダAAは、東京府商工奨励館で行われた「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」において大々的に発表される。そして、改良を重ねながら1943年に次世代のACに移行するまで生産された。
乗用車の開発・生産能力を、着実に高めていった戦前の国産自動車メーカー。しかし、1937年に戦時統制三法(軍需工業動員法/臨時資金調整法/輸入品等臨時措置法)が、1938年に国家総動員法が公布されると、自動車メーカーの開発・生産体制は軍用車に一気にシフトされることとなる。日産自動車やトヨタ自動車などで乗用車の本格開発が再び実施されるのは、戦後まで待たなければならなかった。