日産の歴史2 第二期/1960-1972 【1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972】
乗用車とスポーツカーでの躍進した黄金期
中型乗用車のセドリックのデビューなどで、
快進撃を続ける1960年代の日産自動車。
1966年にはプリンス自動車を合併して、
車種展開の拡大と新技術の導入を図る。
モータースポーツにも積極的に参戦した。
1960年という年は、日産自動車にとって新たな出発の起点となった。1952年12月に始まった英国オースチン社との技術提携契約が1960年3月いっぱいで切れ、いよいよ自動車メーカーとして独り立ちすることになったからである。
提携解消後に最初に発売したモデルは、中型乗用車のセドリックだった。エンジンはG型1.5Lユニット(71ps)。モノコックボディの中に設えたキャビンは、6名乗車を可能にしていた。ルックスもカッコよく、縦に2個ずつ並んだ4灯式ヘッドライトやラップラウンド式のフロントガラスなどが大注目を浴びる。販売台数も好調で、1959年7月デビューの310型ブルーバードに続くヒット作となった。この時点でマスコミ関係者は、こぞって「トラックのトヨタ、乗用車の日産」と評する。販売台数ではトヨタが日産をリードしていたが、その主流は商用車。コロナなどの乗用車は販売成績が伸び悩んでいたのである。
日産は海外でも積極攻勢をかける。1960年9月に米国日産を設立。さらに1961年9月にはメキシコ日産を、1966年5月にはオーストラリア日産を設けた。国内では1962年3月に追浜工場が、1965年5月には座間工場が完成している。
同時に乗用車のニューモデルも続々と開発した。1962年10月にフェアレディ1500、1963年9月に410型ブルーバード、1965年3月にシルビア、1965年10月にプレジデント、1966年4月にサニーがデビューする。小型車から大型車、スポーツカーまで、日産の車種拡大は急ピッチで進んでいった。
業績好調の日産自動車は、その勢いを誇示するような政策を1966年8月に発表する。独自の高い技術を持ち、モータースポーツの世界でも大活躍していたプリンス自動車工業の吸収合併だ。技術面や販売面で得られる多くのメリットを見越しての日産の英断だった。
合併に際しては、まず両社でバッティングしていた車種の調整が課題となった。ブルーバードとスカイラインはエンジンや車格などを変えて異なるカテゴリーのクルマとして販売。セドリックとグロリアは後に基本コンポーネンツを共用化するようになる。シャシーは日産、エンジンはプリンス製ベースというコラボレート車のローレル(1968年3月デビュー)も生まれた。また合併直後の1966年10月には、天皇御料車の日産プリンス・ロイヤルも発表されている。
プリンスとの合併で最も効果を上げたのは、日産自動車の技術の蓄積とスポーツイメージの向上だった。その真骨頂となるクルマが1968年7月デビューのC10型スカイラインである。ボディサイドに刻まれたサーフィンライン、端正なフロントマスク、スポーティな内装、そしてプリンスDNAを引き継ぐエンジンなど、C10は当時の多くの若者を惹きつけた。開発陣もそのイメージをさらに高めようと意欲的に高性能モデルを追加し、1968年9月にGC10型2000GT、1969年2月にPGC10型2000GT-R、そして1970年10月にはハードトップボディのKPGC10型2000GT-Rを設定している。
スポーツイメージと技術の向上をバックボーンに、日産はさらなる車種展開の拡大と積極的なフルモデルチェンジを図っていく。1967年8月に510型ブルーバード、1969年10月にフェアレディZ、1970年9月にチェリー、1971年2月にシャシーを共用化したセドリック/グロリア、そして1972年9月には“ケンメリ”スカイラインを発表した。
こうした車種強化の背景には、実はトヨタ自動車の攻勢があった。サニーに対するカローラ、ブルーバードに対するコロナの成功で、トヨタの乗用車戦略は大いに勢いづいていたのだ。これに対抗するために、日産自動車は車種の大幅強化を図ったのである。しかし、この戦略に水をかけるような大きな社会問題が巻き起こる。それは公害問題による排出ガス規制と第4次中東戦争に端を発するオイルショックだった−−。