ローレルHT 【1970,1968,1969,1971,1972】
日産初の流麗2ドアスペシャルティ
急速に進展する日本のモータリゼーション。
大衆車で満足していたユーザーは、
次第により上級なクルマを求めるようになる。
そんな状況に対応して日産自動車は、
「ハイオーナーカー」に
流麗なハードトップを設定した。
高度経済成長によって中流階級が大幅に増加し、「マイカー」という言葉とともに自家用車の保有が急速に浸透し始めた1960年代中盤の日本。主要道路の舗装が進み、高速道路網も整備されて、モータリゼーションが急速に進展していた。
そんな最中、日産自動車は新しいカテゴリーのクルマを企画する。ブルーバードのひとクラス上で、セドリックの下に位置する上級車の開発だ。当時の小型車ユーザーの上級車指向に対応するために、日産が立てた戦略だった。
1968年3月、「ハイオーナーカー」というキャッチコピーを掲げた新型車が発表される。車名は誇り高いクルマの意味を込めて月桂冠=ローレルと名乗った。同年4月から販売に移されたローレルは、時代の波に乗って販売台数を大きく伸ばす。走りの評判もよく、旧プリンス製のG18型エンジンや四輪独立懸架の足回り、ラック&ピニオン式ステアリングなどが好評を博した。
しかしデビューから半年ほどすると、ローレルの注目度は予想外に下がり始める。最大のライバルメーカーであるトヨタ自工が、渾身のハイオーナーカーをリリースしてきたからだ。車名はコロナ・マークII。同社の大衆車であるコロナのひとクラス上に位置する、ローレルと真っ向勝負した上級車だった。
コロナ・マークIIにはローレルにはない大きな特徴があった。4ドアセダンに加えて2ドアハードトップを用意していたのである。スポーティで上質な走りをルックスからも主張するハードトップの設定は、上級指向ユーザーの心をがっちりと掴んだ。これ以後、ハイオーナーカーのトップセールスにはコロナ・マークIIが君臨することになる。
何とかコロナ・マークIIに対抗して、ローレルのシェアを復活させなければ−−。日産の開発陣はその対応策として、ローレルの車種バリエーションの拡大に乗り出す。
1970年6月、ローレルに新モデルが追加される。「日本初のスペシャルティカー」を謳った2ドアハードトップ仕様だ。同社初のピラーレスハードトップを纏ったエクステリアは、従来の4ドアセダンのローレルにはないスポーティで上質な雰囲気を醸し出す。上級グレードで採用したトップ別体色のカラーリングも、ハードトップの個性を一際強調していた。
ボンネット下に収まるエンジンも注目を集めた。従来のG18型に加えて、2L・OHCのG20型を搭載してきたのだ。最上級のツインキャブレター仕様では125ps/17.5kg-mのパワー&トルクを発生し、最高速度は180km/h、0→400m加速は17.2秒の俊足を誇った。
ルックスの存在感アップとパワーの向上を果たしたローレル・ハードトップ。しかし、コロナ・マークIIの牙城は崩せなかった。マークIIのほうが日本人受けするスタイリングで装備も充実していた、マークII・HT1900GSSのパフォーマンス(10R型DOHC140psエンジン。最高速度200km/h、0→400m加速16.6秒)より劣っていた、販売力とマーケティングに差があった……原因は色々と挙げられた。
ただし、ローレル・ハードトップは熱烈なファンに支持されたことも事実である。旧プリンス自動車直系のG型エンジンは、スムーズな加速と俊敏なアクセルレスポンスが味わえた。さらにラック&ピニオン式ステアリングによる正確なハンドリング、四輪独立懸架の足回りに支えられたコーナリングの安定感など、マークIIを上回るパフォーマンスも実現していた。光が移動するシーケンシャル方式ターンシグナルといったギミックも、スペシャルティ感を盛り上げるのにひと役かっていた。
販売面ではライバルを凌駕できなかったローレル・ハードトップ。その反省は、後継モデルに生かされることになる。