ベレル 【1962,1963,1964,1965,1966,1967】

ディーゼルを設定したハイグレードセダン

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先進モノコック構造採用

 1961年の第7回東京モーターショーに、いすゞは独自に開発した2.0リッター級の乗用車「ベレル」のプロトタイプを展示した。排気量1991ccの直列4気筒OHVエンジンは小型トラック用をベースに改良したもので、ボディ構造はヒルマン・ミンクスの生産で学んだ、当時としては先進的なモノコック構造を採用していた。車名の“ベレル(Bellel)”は、社名である“いすゞ(五十鈴)”を鈴(bell)と五十(ローマ数字でLと表記)分け、順序を入れ替えたものと言われる。なかなかウィットに富んだネーミングである。正式発表・発売は翌年1962年4月からとなった。
 ベレルは、いすゞにとってはヒルマン・ミンクスに代わる本格的な5〜6人乗り乗用車であった。当時としては大型のボディーサイズを持ちハイヤーやタクシーといった法人需要も意識して開発されていた。しかしヒルマンの好調な販売が却ってアダとなってしまい、独自の乗用車の開発が遅れてしまったことは否めない。1960年代初期はすでに、トヨタのクラウン、日産のセドリックの2大ブランドに拠るマーケットの寡占が定着しつつあり、新しいブランドが割り込むのはかなり難しい状況となっていたのである。だが、敢えてその市場に切り込んだのは、いすゞの総合自動車メーカーとしてのプライドであったと思われる。また、戦前からの大型トラック専業メーカーというイメージを払拭したいと言う希望もあったはずだ。

経済的なディーゼルを設定

 ベレルの市販モデルに搭載されたエンジンは、ガソリン仕様が2種とディーゼル仕様が1種でいずれも直列4気筒OHVで、排気量はガソリン仕様が1491ccと1991cc、ディーゼル仕様は1991ccとなっていた。特にディーゼル・エンジンは国産乗用車としてはトヨタのクラウンに次ぐもので、経済性の高さから主に法人向けやタクシー用に使われた。ディーゼル・エンジンに豊富な経験を持ついすゞらしいラインアップで、当時の試乗レポートでは「ガソリン車と遜色ないパワーと走り、メルセデス・ベンツのディーゼルよりも静か」と報告されている。ちなみにディーゼル車のランニングコストは軽油自体の安さもあってガソリン車の約2分の1にすぎなかった。
 トランスミッションは4速マニュアルで、コラムシフトのみの設定となっていた。オートマチック・トランスミッションやスポーティーカーの必須条件だったフロアシフトの設定が無かったことは、販売上も利点とはならなかった。サスペンションは前がダブル・ウィッシュボーン/コイル・スプリングの組み合わせ、後が縦置きリーフ・スプリングによる固定軸ときわめてコンベンショナルなものだ。

スタイリングは純オリジナル

 ベレルの大きな特徴となっているスタイリング・デザインは、この当時に多くのメーカーが行っていた海外のカロッツェリアに依頼したものではなく、社内のスタッフに拠るものだと言われる。4ドアの3ボックス・セダンでありながら、コーダトロンカの手法を採用したとメーカーが主張するデザインは、三角形のテールライト、大きく湾曲したフロント・ウィンドウ、低いウェストラインなど日本車らしからぬ垢抜けしたものだった。しかし、基本的なデザイン手法は手堅いものの、スタイリングそのものはすでに旧さを感じさせるものとなってしまっていた。インテリアも同様にきわめて率直なデザインではあったが、2.0リッター級の高級車としては実質的に過ぎ、オーナーカーとしての華やかさには欠けるきらいがあった。5〜6人乗りの4ドア・セダンとしては、不十分なものではなかったのだが、華やかさはなかった。1963年4月からは内外装を豪華にして、装備するアクセサリーも増やしたスペシャルデラックスも加えられるのだが、地味なイメージは変わらなかった。

 1965年にマイナーチェンジを施し、グリルの形状とデザイン、室内のデザインを変更している。さらに、1966年にはヘッドライトを縦型4灯式とし、テール・エンドの意匠変更(特徴的な三角テールライトは消えた)を行い、室内もより豪華にしている。しかし、エンジンやトランスミッションなどメカニズムには大きな変更は行われなかった。「ベレル」は大きな人気を得る事無く、1967年5月を以って生産を終えた。およそ5年間での総生産台数は3万7206台だったと言う。