GT350 【1965,1966,1967】

名匠が手掛けた “アメリカン・レジェンド・マスタング”

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世に言う“スペシャルティカー”のパイオニアとして
1964年にデビューした「フォード・マスタング」。
企画を主導した副社長のリー・アイアコッカは、
その販売促進を目的にレースへの参戦を企画。
マスタング・ベースのハイパフォーマンス車の開発を
旧知のキャロル・シェルビーに依頼する。
シェルビーの元で車両の軽量化や
強化パーツの組み込みなどを実施した高性能版は、
「GT350」の車名を冠して1965年にデビュー。
誕生したその時からアメリカン・レジェンドとなった。
スポーツイメージを纏ったマスタングの大ヒット

 1960年代半ばのアメリカに忽然と現れ、たちまち“ポニーカー”と呼ばれるスペシャルティカーの大ブームを巻き起こしたのが、1964年にデビューした「フォード・マスタング」である。マスタングはデビューしてわずか1年ほどで50万台近くを販売する大ヒットとなった。このマスタングの成功を他社も黙って見ているはずもなく、GMはシボレー・カマロを、クライスラーはプリムス・バラクーダを発表して後を追った。しかしマスタングのシェアを超えることは出来なかった。

 マスタングが成功した大きな要因のひとつが、スポーツ&カスタム・イメージを巧みに演出したことである。マスタングは4ドアセダンやステーションワゴンなど実用性重視のモデルは持たず、売り出されたのは2ドアモデル(ハードトップ/コンバーチブル/ファストバック)のみであり、その代わりにエンジンからドアノブに至る2000種類に及ぶ様々なオプションパーツを揃え、オーナーの好みによってオリジナルなクルマに仕立てるシステムを採った。いわゆる“フルチョイス・システム”である。

この変わった販売方法と共に、フォードはマスタングばかりでなくフォード・ブランドのクルマを実際のレースやラリーに出場させ、スポーツイメージを盛り上げた。1964年のル・マン24時間レースにフォードGT40を出場させたのも、こうしたフォードのスポーツイメージ醸成の一環だった。

名コンストラクターに至るまでのC.シェルビーの略歴

 一方、フォードは量産型のマスタングのスポーツイメージを作り上げ、さらなる販売促進を図るために、マスタングをアメリカ国内でのSCCA(スポーツ・カー・クラブ・オブ・アメリカ)が主催するレースイベントに出場させる案を企画する。このためのレーシングマシンの開発を手がけることになるのが、アメリカ人で元レーシングドライバーのキャロル・シェルビーだった。

 キャロル・シェルビーは1923年にテキサスで生まれた。1952年にオクラホマ州ノーマンでのレースに、MG TCで出場したのがモータースポーツへ入った最初となった。その後、アメリカの国内レースで活躍し、その名を知られるようになる。

レーシングドライバーとしてのハイライトは、1959年のル・マン24時間レースに、英国のアストンマーチンDBR4を英国人ドライバーのロイ・サルヴァドリとドライブして優勝したことだ。その後、キャロル・シェルビーは心臓病が発覚。健康上の理由からレーシングドライバーを引退し、スポーツカー・コンストラクターとなった。

名車ACコブラの誕生

 キャロル・シェルビーはもともと英国製スポーツカーの持つ卓越したハンドリング性能に深い感銘を受けていた。ただし、エンジンのパワーは不足気味で、常にもっとパワフルなエンジンを求めていたのである。

そんな時に、アメリカのフォード社がスポーツイメージを引き上げる手段として積極的なモータースポーツへの参加を企画していることを知り、乗用車用の大排気量V型8気筒エンジンをさらにチューンアップし、強化した英国製スポーツカーのシャシーと組み合わせることができれば、シェルビーが理想とする高性能スポーツカーが出来ることを思いつく。

早速、英国のAC社にその計画を持ち込んでシャシー製作の約束を取りつけ、一方でフォード社に掛け合ってV型8気筒エンジンの獲得に成功する。こうして誕生した高性能スポーツカーが、1962年に現れた「ACコブラ」である。ACコブラは世界中のレースで大活躍。1965年シーズンではコブラ・デイトナ・クーペがGTクラスのワールド・チャンピオンシップを獲得している。

C.シェルビーが施したマスタングの高性能化の内容

 フォード製エンジンを搭載したコブラ各車の活躍を高く評価したフォード社は、マスタングのチューンアップモデルの開発をキャロル・シェルビーに依頼する。シェルビーはフォード社のバックアップの下、自らが主宰するシェルビー・アメリカン社において高性能マスタングの本格的な開発を始めた。やがて完成した高性能マスタングには新たに「GT350」の名が与えられた。

1965年中に完成したGT350は、公道走行用とレース用に特別に高度なチューンが施されたコンペティション用GT350R(Rはレーシングの意)を含めて562台といわれている。

 シェルビーが手がけたGT350は、標準型のマスタング・ファストバックをベースとして、独自のパーツを使い、シェルビー・アメリカンが直接チューンアップを加えたモデルとなっていた。主な特別装備のパーツとしては、フロントとリアのサスペンションのショックアブソーバーをオランダのコニ製アジャスタブル・タイプのヘビーデューティー仕様に換え、その頂部からバルクヘッド中央部分に至る三角形のタワーバー(パフォーマンス・ロッド)を装備。

さらに、トランスミッションはボルグワーナー製で軽量化のためにアルミニウム製ケースを持つクロースレシオ(接近したギア比を持つ)4速型としている。シェルビー・アメリカンではセブリング型トランスミッションと呼んでいた。フロントブレーキはケルゼイ・へイズ社製の11.3インチ径(約28.7㎝)ベンチレーテッド型を装備。明るいシルバーに塗られた5.5Jスチール製ホイールには、グッドイヤー社製7.75×15インチ・サイズのブルードット・タイヤが装着された。

306hpのチューンドV8を搭載

 インテリアでは後部座席が取り外されて2名乗車となり、ダッシュボード上にはカウルに収められたエンジン回転計と油圧計が装備され、ステアリングも289コブラと同じウッドリムの3本スポーク型が装着される。ドライバーズシートもシェルビー・アメリカン特製のスポーツシートとなる。その他、FRP(強化プラスチック)製のエンジンフードやエグゾースト系部品、ボディストライプなど、多種多様なオプションパーツが注文できたが、ヒーターやラジオ、パワーステアリング、パワーウィンドウ、フロアカーペットなどの快適装備は極力省かれていた。

 最も重要なエンジン関係では、ギャラクシー用の排気量289cu.in(4736㏄)のV型8気筒OHVを4バレル型ホーリー・キャブレターと組み合わせてさらにチューンアップし、306hp/6000rpmの最高出力と329lbs-ft(45.5kg・m)/4200rpmの最大トルクを得ていた。シェルビー・アメリカンが揃えたエンジン周りの特製部品は、大型で流入抵抗の少ない吸気マニホールド、アルミニウム製ヘッドカバー(COBRAのレリーフがある)、4ブランチのエグゾーストマニホールド、大容量のオイルパン、オイルクーラーなどがあった。

レンタカー仕様のGT350Hも登場

 シェルビーGT350シリーズのなかの変わった車種としては、1966年に登場した全米にネットワークを持っていたハーツ・レンタカー向けのGT350Hと呼ばれるモデルがある。車名のHはハーツ(Hertz)のイニシャル。これは、GT350にオートマチック・トランスミッション、パワーステアリング、ヒーター、ラジオなどの快適装備を加えたもの。ゴールドのストライプで識別は容易。およそ1000台が造られた。

これは人気こそ高かったものの、販売台数が伸び悩んだGT350の販売テコ入れの意味もあった。一般市販用の350GTとは違いAT仕様だったため、誰もが容易に運転を楽しめた。なかには350Hを週末に借り、サンデーレースに参加する者も現れたという。

 フォードのバックアップがあったとはいうが、キャロル・シェルビーの企画は大成功だったわけだ。GT350はそれを象徴するモデルといえるだろう。

COLUMN
スポーツイメージを纏ったマスタングの大ヒット
 車高が40インチ(約1000mm)であることから、通称“GT40”と呼ばれるスポーツプロトタイプマシンの「フォードGT」。その初期型であるマーク1は1964年に完成し、英国に居を構えるフォード・アドバンスド・ビークルズの手によってル・マン24時間レースに参戦した。フォードGTはラップレコードを更新して速さを示したものの、結果としては全車リタイア。フォード本社は雪辱を期すために、開発をシェルビー・アメリカンに移管。1965年開催のル・マンでもラップレコードを再度更新するが、再び全車がリタイアしてしまった。 しかし、ここで挫けないのがシェルビーの真骨頂。レースで得たフォードGTのウィークポイントを徹底的に対策し、強化タイプのシャシーと新設計のボディ、そして独自開発の7リッター・V8エンジンを搭載したマーク2を生み出す。 ニューマシンのマーク2は1966年開催のル・マンでヘンリー・フォードⅡ世が見守る中、ついにトップチェッカーを切る。さらに、2位と3位にもフォードGTが入るという快挙を達成した。ル・マンでのフォードGTの快進撃は1967年大会でも続き、新シャシーを使用したマーク4が優勝し2連覇を成し遂げる。この年を持ってフォードは、ワークス活動から撤退するが、プライベーターが1968年と1969年の大会で優勝を果たし、フォードGTのポテンシャルの高さを見事に証明したのである。