T360 【1963,1964,1965,1966,1967】

スポーツカーの心臓を持った俊足トラック

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モーターショーで衝撃デビュー!

 1962年の第9回東京モーターショー(当時の正式名称は全日本自動車ショー)に、それまで2輪メーカーであったホンダは、超小型2人乗りスポーツカー、ホンダS360/S500を発表した。このスポーツカーこそ、ホンダ初の4輪車だと思われがちだが、実は同じ会場でもう一台のホンダ製4輪車が発表されていた。それが、軽自動車規格のトラック、ホンダT360であった。

 生まれついての機械好きであり、10代のころから自動車修理工場の徒弟として働き、日本でのモータースポーツのパイオニアとしてレースにも参戦していた本田宗一郎は、戦争が終結した直後の1946年に、生まれ故郷の静岡県浜松でホンダ技術研究所を設立、小型エンジンの開発に乗り出す。最初は自転車に取り付ける排気量50ccの補助エンジンを生産し、大成功を収める。やがて本格的なモーターサイクルの生産を手がけるようになり、レースへの参戦を開始した。1954年9月にはマン島で開催されるTTレースへの参戦を宣言し、1961年には125ccおよび250ccクラスでメーカーチャンピオンを獲得する。2輪の国際的なレース参戦開始からわずかな年月での快挙であった。

スポーツカーの心臓を持つトラック

 2輪部門での成功は、メーカーであるホンダと先進的なスピリットを持った自動車技術者であった本田宗一郎を、本格的な4輪車の開発と生産へと駆り立てるには十分なものとなった。1963年に発表された小型スポーツカーと軽トラックには、モーターサイクルの開発と生産、さらに2輪のモータースポーツで鍛え上げられた技術が惜しみなく盛り込まれていた。本田宗一郎自身、「モータースポーツは量産型の自動車の走る実験室である」と公言して憚らなかったというから、彼のレースとクルマへの情熱がいかに強いものであったかが伺われる。

 小型スポーツカー(S360/S500)と軽トラック(T360)には、水冷直列4気筒DOHCという高度な設計が採用されていた。エンジンブロックを含めアルミニウム製となっており、4基のキャブレターが装備されていた。自動車ショーでそのエンジンを見た外国人記者に「まるで時計のように精密極まる……」と言わせたほどの高い完成度を持っていた。確かに、多種多様なエンジンをモデルによって造り分けることは、当時のホンダの企業スケールから見て無理なことであったが、だからと言って、スポーツカー向けの高性能エンジンを軽トラックにも採用してしまうという発想は見事であった。アイデアマン・本田宗一郎の面目躍如である。

すべてが常識破り、駆動方式はミッドシップ!?

  軽トラックのT360は、1963年8月に発売が開始された。これは、小型スポーツカーであるS500の発売開始(同年10月)より2か月早く、ホンダ初の市販型4輪自動車となった。1963年のモーターショーで発表されていた軽スポーツカーのS360は、同業他社からの反発などから、発売は中止されている。
 T360の当時のカタログには「今までの常識を破ったトラックです」と書かれている。それはそうだろう。水冷直列4気筒DOHCエンジンをミッドシップ配置したT360は、まさしく常識破りと言える存在だった。

 駆動システムはエンジンを前車軸の後方にマウントした完全ミッドシップ。AS250E型エンジンはちょうどドライバーズシートの下に配置されている。フロントフードを開けると現れるのはスペアタイヤだ。エンジンは高さを抑えるため、ほぼ水平に倒して搭載。ミッドシップ配置とした狙いは広いラゲッジスペース実現と良好な前後重量配分のため。T360の1370mmの荷室長は当時クラストップを誇り、しかも理想的な重量配分のため空荷はもちろん、フル積載時でも安定した走りを披露した。ちなみに愛嬌あるスタイリングは風洞で空力特性を吟味していたという。

DOHCエンジンはオールアルミ製

 最大の特徴であるエンジンは、発売されなかったS360と同じ水冷直列4気筒DOHCの自然吸気型。シリンダーブロックやヘッド、オイルパンに至るまで全てアルミニウム製の高度な設計で、レーシングモーターサイクル用エンジンの開発で培われた技術を注ぎ込んだものであった。排気量は354ccで、8.5の圧縮比と京浜製CVB27型キャブレターを4基備え、30ps/8500rpmの最高出力と2.7kg・m/6500rpmの最大トルクを発揮した。モーターサイクル用のエンジン同様、高回転高出力型で、およそ実用的な軽トラックには似つかわしくないスペックであった。

 高出力をコントロールするため、トランスミッションは当時の軽自動車には珍しい4速型が奢られていた。おそらくは、性能的には1.5リッター・クラスの乗用車にも匹敵するものだったに違いない。トップスピードは100km/hに達した。このとんでもない高性能こそが、基本的に同じエンジンを搭載していたスポーツカーであるS360の発売を強硬に反対した同業他社の大きな理由であったのだ。「スポーツカーが駄目だというならトラックで……」という発想は、硬骨漢である本田宗一郎ならではだ。

兄貴分のT500も登場しラインアップ充実

 サスペンションやインテリアデザインは、エンジンの先進性とは打って変わってオーソドックスなもので、当時の平均的な軽トラックと選ぶところはない。価格は34万9千円だったが、同程度の積載量を持つライバルに比較すれば、割高感は否めなかった。ダイハツ・ハイゼットL35は30万円であった。

 T360が登場してからほぼ1年後の1964年9月に、エンジン排気量を531ccに拡大、最高出力を38ps/7500rpmとしたT500がデビューした。軽自動車故の寸法の規制が無くなったことで荷台の長さを200mm延長、最大積載量を400kgとしたモデルだ。軽自動車の枠を取り払うことで、安価な小型車として売り出したわけだ。価格は37万5千円となっていた。順当なグレードアップであり、ホンダが本格的な小型車生産へ進出するための試金石となったのである。ホンダTシリーズ、それはきわめてユニークなモデルであった。ちなみに約4年間の販売期間中にT360はおよそ11万台、T500は1万台ほどが販売されたという。