アンフィニRX-7 【1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002】
理想設計を貫いた軽量ロータリーロケット
日本の経済が、バブル景気の最中に在った1991年12月、マツダは5チャンネルの販売チャンネルを展開して拡販を目指していた。その中の一つであるアンフィニ(フランス語で無限大の意)店系列から発売されたのが、RX-7の3代目となるアンフィニRX-7だ。この年にマツダはロータリーエンジン搭載のマツダ737Bで日本車としては初めてル・マン24時間レースに総合優勝を成し遂げている。
アンフィニRX-7は、開発陣がはじめてピュアスポーツと名乗ったモデルだった。初代モデルが登場した1970年代後半は、まだ公害対策の真っ只中で社会がスポーツカーを名乗るのを許さなかった。2代目がデビューした頃もまだ社会にはスポーツカーを受容する豊かさを持っていなかった。しかし未曾有の好景気に支えられていた3代目が登場する1991年は、スポーツカーを求める社会の流れがあった。開発陣は自信を持ってピュアスポーツのRX-7作りに邁進したという。
開発キーワードは、開発主査の小早川氏によると“志・凛・艶・昂”の4文字。その意味は志=クルマを通して造り手の志が明確に感じとれること、凛=その志を達成するための割り切りの良さが感じられること、艶=思わず惹きこまれるような艶めきに満ちていること、昂=見て、触れて、乗って、あらゆるステージで人の心を昂ぶらせずにはおかないことだったという。開発キーワードに沿ってスポーツカーとして理想的なパッケージングが決まり、パワフルで小型の2ローター・ロータリーターボ・ユニットをフロントミッドに配置した、細部まで徹底的に軽量化した魅惑的なスタイリングのピュアスポーツが誕生した。アンフィニRX-7が歴代RX-7のなかで最も個性が明確で、素晴らしい走りを持っているのは、開発陣の熱い想いが結実しているからである。
フロントに置かれ、後輪を駆動するエンジンは水冷2ローターのロータリーエンジン。13B-REW型2ローター・シーケンシャルツインターボユニットは、ロータリーの美点を生かしコンパクトでしかも部品点数自体が非常に少ない設計だった。13B型という名称自体はかつてコスモなどにも使用していた伝統の形式だが、設計自体はすべて新しく、単室654cc×2ローターという基本は共通なものの、部品番号はすべて従来からの13B型とは異なっていた。
圧縮比を9.0に高め、鋳鉄薄肉ローターの燃焼室部分は完全機械仕上げ。アペックスシール部分にはレーザー焼入れを施したうえでシール溝を刻み、耐磨耗性向上を図っていた。高回転化への対応としてメインメタルは加工精度を高めただけでなく、ビス止めしてメタルを回さない方式に改良。ちなみにこのビス止め方式はル・マン24時間レースの経験を生かしたリファインだったという。2基のターボチャージャーは51mm径9枚ブレードのタービンと、57mm径10枚ブレードのコンプレッサーの組み合わせ。翼断面形状をハイフロー型としブレード枚数を適正化することでレスポンスを向上させていた。最大過給圧は570mmHgと高めに設定していた。
スペックは255ps/6500rpmの最高出力と30.0kg・m/5000rpmの最大トルクを発揮。トランスミッションは5速のマニュアル型と4速オートマチックの2種がある。ブレーキは高性能に対処して4輪ベンチレーテッドディスクが装備(前輪は対向型4ピストン型)されている。サスペンションはアーム類にアルミニウム材を多用した軽量型で前後ともダブルウィッシュボーン/コイル・スプリングの組み合わせを採用、4輪ダイナミック・ジオメトリー・コントロールと呼ばれるホイールとタイヤの積極的な姿勢制御機構を採用した。性能的には当時の国産車としては文句無くトップクラスにあった。0→400m加速で13.8秒を簡単に記録、最高速度は180㎞/hでリミッターが効くが、それが無ければ250㎞/hには優に届くだけの実力は持っていた。
こうした高性能を可能としたのは、ボディやパワートレーン全体に及ぶ徹底した軽量化の効果であり、それは数グラムの単位での軽量化努力をきめ細かく積み重ねた結果だった。サスペンション部品の一部やエンジンのボンネットにアルミニウム素材を採用して10kg、ガラス製ウィンドウの不要部分を薄くして9kg、ヘッドライトのユニットの小型化と、可動部のリンケージ簡素化で4kgなど、あらゆる場所で軽量化に対するチャレンジが敢行された。その結果、当時の国産車としては最も優れたパワーウェイトレシオである4.9㎏/ps(タイプS)を実現。この値は、イタリア製の高性能スポーツカーやドイツ製リアエンジンの高性能車に匹敵するものとなっていた。
アンフィニRX-7はマツダが導入したスーパーコンピューター解析を駆使して開発されていた。計算上は十分な強度を持ったボディが開発初期段階には完成していた。しかし実際にドライブすると初期のアンフィニRX-7プロトタイプは、足の硬さがしっくりこなかったという。超高速ゴーカートのように落ち着きがなかったのだ。ロールは少ないものの開発陣が求めるプログレッシブに踏ん張るしなやかな足になっていなかった。開発陣はコンピューターが弾く数値以上に大切な要素がボディには求められると判断。軽量化のためにいったんは取り去ったサイドシル後端のパネルを復活させ、サイドシルには竹の節のような小さな隔壁を追加した。さらにボディには前後ストラットタワーバー、トンネルをつなぐ2本のバー、リアサスのトー・コントロールリンク取り付け部などに合計7本の補強バーを追加する。これで開発陣の求める強靭でしなやかなボディが実現。足の動きが見違えるほど滑らかになったという。この経験はル・マンを制したレーシングマシン787Bにも生かされたという。
アンフィニRX‐7はマイナー・チェンジを繰り返しながら、2002年8月まで生産された。理想主義が貫かれた素晴らしい名車である。