ダイハツの歴史2 第ニ期/1968-1977 【1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977】

新たな経営戦略と車種展開の拡大

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中堅メーカーが経営基盤の強化を
模索していた1960年代後半、
コンパクトカー・メーカーのダイハツ工業は
資本強化のためにトヨタと業務提携する。
1970年代に入ると月販3万台の実現に向けて、
車種ラインアップと工場の拡大に驀進した。
トヨタ自工・自販との業務提携

 日本で資本の自由化が正式に実施された1967年、ダイハツ工業はトヨタ自工と自販との業務提携に調印する。ほかの中堅メーカーが海外との提携を模索するなかでの、ダイハツ首脳陣の英断だった。翌年発表された資本金は180億円となり、同年7月にはダイハツ自動車販売が営業を開始する。さらに10月には大阪の伊丹市に部品センターが完成し、従来の弱点だった流通面が徐々に拡充していった。

 新型車も相次いでデビューする。1968年5月には軽商用車のハイゼットを発売。さらに翌年4月には小型乗用車のコンソルテ・ベルリーナをリリースする。コンソルテはイタリア語で「仲間」を意味し、トヨタとの理想的な提携関係にちなんで命名されたものだった。コンソルテのデビューから5カ月後には、トヨタ・パブリカの受託生産も開始している。

車種ラインアップの強化と工場の拡大

 1969年10月、ダイハツ工業は重大な宣言を発表する。月販3万台を目標に掲げる「30作戦」だ。1970年代に入ると、そのための車種ラインアップの強化や工場の拡大を矢継ぎ早に実施する。

 1970年4月には若者層に向けたフェローMAXを発表。同時にメーカーのイメージアップを図るためのバギーカー、フェロー・バギィをリリースする。ちなみにこのバギィは、公道を走れる日本初のバギーカーだった。ダイハツの攻勢はまだまだ続く。同年10月には小型貨物車のデルタ1500と2000を発売し、さらに1カ月後にはトヨタ・ライトエースの受託生産を開始した。1971年に入ると、3月に小型貨物のベーシックモデルとなるデルタ750を、8月にはフェローMAXのハードトップバージョンをリリース。さらに輸送分野にも力を入れ、1972年2月にはダイハツ輸送が営業を開始している。

 工場のほうは、1970年11月に多田工場が発足し、1973年4月には京都工場の拡充を図って大型乗用車の専門プラントとして稼動するようになった。滋賀の竜王工場が動き出したのは1974年4月で、最初にエンジンの組み立てから開始している。

小型乗用車のヒット作が登場

 1970年代の中ごろに入ると、ダイハツは排気ガス対策と同時に小型自動車の販売にも力を入れ始める。排ガスは新しい触媒の設定に加えて、乱流生成ポット付き燃焼室のダイハツTGPを開発した。この機構はトヨタのTGPのポットがタコ壷型だったのに対して素通り型を採用し、点火栓の位置もトヨタが入り口付近で、ダイハツは奥まった場所に配置していた。

 小型自動車は1974年8月にデビューした四輪駆動車のタフトを皮切りに、同年11月にはシャルマン、12月にはシャルマン・バンを発売する。1976年に入ると軽自動車の規格改定に合わせたハイゼットとフェローMAXが登場。小型車は9月に四輪駆動車のタフトグランを、10月にはデルタワイドバンとワゴンをリリースしている。

 1977年に入ると、ダイハツ製小型車の真打ちともいえる画期的なモデルがデビューする。世界初の3気筒1000cc・4サイクルエンジンを搭載したシャレードだ。ヨーロッパチックなデザインと1.6L車に匹敵する広い室内空間、そして経済性に富んだパフォーマンスは大好評を博し、1977年度の日本カーオブザイヤーを受賞するという栄誉にも輝く。この成功を機にダイハツは、トヨタ・グループ内のコンパクトカー・メーカーとしての地位を確固たるものとしたのである。