いすゞ歴史 第四期 【1987-1995】

総合自動車メーカーからSUVメーカーへの転身

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好景気をバックに業務提携や海外進出を
積極化させる1980年代後半のいすゞ自動車。
しかし自動車の販売成績自体は伸び悩み、
1992年には乗用車の生産を中止する。
その後はSUVとトラックの開発に注力。
ディーゼルエンジンにも力を入れた。
活発な業務提携と海外戦略

 バブル景気で賑わう1980年代後半の日本の自動車業界。その状況下でいすゞ自動車は、他メーカーとの業務提携を積極的に推し進めていく。

 1987年9月にはGMと共同でアイビーシー・ビークルズ・リミテッド(IBC)を設立。1988年3月には富士重工と相互製品OEM供給に合意し、その2カ月後には同じGM グループ内の自動車メーカーであるアダムオペル社と日本におけるオペル車の輸入・販売契約を調印した。1989年1月にはやはりGM社と合弁で豪州にいすゞ・ゼネラルモータース・オーストラリア(IGM)を設立する。さらに同年10月には、富士重工と合弁で立ち上げた米国のスバル・いすゞ・オートモティブ(SIA)がついに自動車の生産を開始した。

 GMとの提携の深化、富士重工との提携の進展−−2つの提携で車種ラインアップを増やし、海外事業を拡大したいすゞだが、この戦略は結果的に同社のオリジナリティの喪失につながっていく。1980年代後半にリリースした一般向けの新型車はビッグホーン・イルムシャー(1987年10月デビュー)やジェミニ/ピアッツァのハンドリング・バイ・ロータス(1988年3月/同年6月デビュー)、1トン積みキャブオーバー型トラックのファーゴ・トラック(1988年9月デビュー)、SUVのミュー(1989年4月デビュー)くらい。富士重工からのOEM車となるジェミネット(1988年8月デビュー)やオペル・オメガ/セネターCD(1988年12月デビュー)などもディーラーに並べられたが、ユーザーの関心度は低かった。

■新型車の開発は――

 1990年に入ると、いすゞは久々にオリジナルの新しい乗用車を発表する。3代目となる新型ジェミニだ。まず3月にセダンを発売し、同年8月にはクーペを、翌年3月にはハッチバックをリリースする。新本社の社屋が東京・大森に完成した4カ月後の1991年8月には、ジェミニのシャシーやエンジンを使った2代目ピアッツァも発表された。この時点でピアッツァは、単独車種ではなくジェミニの兄弟車として存在するようになる。

 新型車の発表はまだ続く。2代目ピアッツァの発表から4カ月ほどが過ぎた1991年12月、日本のSUVの先駆的モデルであるビッグホーンがフルモデルチェンジを果たす。2代目となる新型は従来より大型化と高級化が進み、ひとクラス上のSUVに進化していた。

 一方、生産を中止するモデルもあった。同社のミディアムセダンに位置づけられていたアスカである。1990年5月には自社生産モデルの販売を止め、富士重工からレガシィのOEM供給を受けて、アスカCXの名でリリースするようになった。

■乗用車生産からの撤退

 新型車のリリースとOEM車の増強、そして海外事業の拡大で業績を伸ばそうとしたいすゞ自動車だが、予想外の事態が同社を襲う。バブル景気の崩壊だ。いすゞの業績は急速に悪化し、事業投資のツケに苦心することになる。さらにGMの戦略が色濃く反映された新型ジェミニの販売も伸び悩んでいた。

 首脳陣は車種体系の見直しや資本提携の強化を余儀なくされる。そして1992年には乗用車の自社生産の中止を発表した。この政策には「GMの下請けのような乗用車の開発には意味がないし、日本市場の嗜好に合わせたクルマも造りづらい」という現場の意見も含まれていた。これ以後いすゞは、一般ユーザーに対してビッグホーンやミューを中心とした“SUVスペシャリスト”を標榜するようになる。

 提携の見直しに関しては、本田技研との商品の相互補完契約の締結(1993年4月)、車体工業の吸収合併(1994年5月)、日産・日産ディーゼルとの商用車の相互OEM供給に関する契約の調印(1994年8月)などを実施する。さらに得意分野のトラックのラインアップを強化し、1993年7月には新型エルフを、1994年2月には新型フォワードを、同年11月には大型トラックの新型ギガをリリースした。乗用車では1994年3月にホンダからのOEM車である新型アスカが、1995年8月に日産からのOEM車である新型ファーゴが、同年12月にオリジナルモデルのミュー・ウィザードがデビューしている。

 資本提携の見直しと車種ラインアップの整理・特化で業績を立て直そうとしたいすゞ自動車。しかし、同社にはさらなる試練が待ち受けていた−−。